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死者に降る光は私が

 つい最近、X(旧Twitter)で誰かが呟いていたオカルティックな投稿を目にした。
「死んだ人が誰かの夢に出てくるには相当なコストがかかる」
みたいな内容だったように思う。
 つまり、死んだ人間が生きている人間の夢の中に登場するには、神様なのか仏様なのか、誰かしら死後の上層部になんらかの対価を払わねばならず、その対価が結構ハイコストなものなのだ。みたいなことらしい。輪廻の先を明け渡すとかそれ系のものなのだろうか。
 このツイートを見たとき、ふと思い出したことがあった。父方のおばあちゃんの妹、つまり大叔母が私の夢に出てきたときのことだ。

 夢の中で、私は高校まで住んでいた家の和室に、布団を敷いて横になっていた。なぜか両親もいて、両親はともに「とよみちゃん(大叔母)に連絡が取れない」と私の横で一通り大騒ぎしたのち、部屋を出ていった。
 私はといえば、「え? どういうこと? なぜ騒いでどっか行った?」と冷めた感情を携えて、暗い部屋の中でただ眠りに落ちるのを待っていたのだ。すると和室と廊下を隔てる襖が開いて、大叔母が顔を出した。そして私に自分の携帯電話を渡して、
「これ、お父さんとお母さんに渡しておいて。言えばわかるから」
そう言って、和室から出てサッと襖を閉めていってしまった。
 そしてこのすぐあとに和室に戻ってきた両親に、「とよみちゃんに会わなかった? 今来たけど」と携帯電話を渡して、ポカンとされた。

 たったこれだけの夢だった。そして私は、この夢を見たことを目を覚ました瞬間には忘れていたのだ。
 夢を思い出したのは、夢を見た二日後だった。父から、
「とよみちゃん(大叔母)が亡くなったよ。昨日今日と告別式だの火葬だのを一気にやったので疲れて寝ていました」
そう、LINEが入ったときだ。
 ふと大叔母が薄暗い部屋で、私に携帯電話を手渡した瞬間が脳内に蘇った。美容師をしていた大叔母が、まだ五十代に差し掛からないくらいのときのしっかりと化粧がされた顔だった。
 よくよく聞けば、大叔母が亡くなったのは父が連絡をよこした日の前の日、つまり一昨日の夜だったそうだ。私が大叔母の夢を見たのと、大叔母が亡くなったのと、どちらがあとで先かはわからないが、とりあえず大叔母が亡くなった前後に私は大叔母の夢を見ていたようだった。
 祖母より10歳以上も年下で、独り身で子どもがいなかった大叔母は、アルツハイマーだった。
 いつ頃発症したのかは定かではないが、仙台で経営していた美容院をやめて祖母と暮らし始めて何年か経って発症した記憶がある。といっても、両親から「とよみちゃんがアルツハイマーかも」と耳にしただけだった。なんとなく、2018年あたりのことだった気がする。
 息子を連れて祖母の家に行ったとき、祖母はひ孫である息子の名前を盛大に間違って呼び続けていたが、大叔母は一度「こうちゃん」と名前に近いあだ名で一度呼んだだけだった。あとはただ、家の中で動き回る息子を眺めて笑っていた。私とも、普通に会話していた。だから、(本当にアルツハイマーなのかなあ?)と思っていた記憶がある。
 もしかしたら、何度注意してもひ孫を全く違う名前で呼び続ける祖母を見て、(ババアのがよほどやべえよ!)と感じたせいかもしれない。ババアのせいで大叔母のアルツハイマーは薄れてしまっていた可能性はある(ちなみにババアは今も健在)。
 その後、コロナ禍に突入してなかなか会えないまま、大叔母は死んだ。
 入院先で肺炎になったと聞いたから、亡くなった報告にはそこまで驚かなかった。高齢者であればさもありなん。そういう感じだった。
 大叔母が祖母の家に同居し始めたときにすでに頭では理解していたはずなのに、大叔母の死の知らせを聞いて私はやっと、ああもう大叔母が住んでいたあの自宅兼美容院に行くことができないのだと思い知ったのだ。小さな頃、一人で遊びにいったり泊まりにいったりしていたあの建物に、私はもう足を踏み入れることができないのだと。
 なぜそんな分かりきったことをこの期に及んで考えたのかわからないが、なぜだかそのことがあんまりにも悲しくて重い事実として心の中にジャバジャバと、無遠慮に染み込んできた。明かりが差し込むコンクリートの廃墟の中に私が一人でいて、その変に開放的な灰色の部屋がものすごいスピードで浸水していくみたいな感じで。
 そんで私は、そこにざぶんと沈んでゆらゆらと揺れる視界で、いろんなものを見る。自然光が落ちる水の中くらいの、ぼんやりとした視界で。

 大きな鏡の横に並んだ、唇に塗ったときに赤っぽい色に変化する、黄緑や紫のリップスティック。
 髪の毛を切ったお客さんに後頭部を見せるために広げる二つ折りの大きな鏡。カウンターに置いてあった、裏面に線画みたいな女性の絵が描かれた顔の大きさくらいある手鏡。
 大叔母がお客さんの髪を切っているときに、私が退屈を持て余して座っていたシャンプー台。白くて大きな陶器の流し台があった。
 美容院から2階の居住部分に上がる急な階段は灰色のカーペット敷きで、私は小さい頃に転げ落ちたことがあったように思う。灰色の段々を転がり落ちる歪な視界をいまだに覚えている。
 黄緑色のインコ。
 焼けるとポンと食パンが飛び出る、洒落たトースター。焼き目の色が強めのトースト。
 私が大きくなってもしばらく置かれていた一休さんの絵本。

 大叔母が祖母の家に移り住んでからも、話したことや一緒に行った場所は色々とあるはずなのに、こういうものばかり思い出すのだ。私が思い浮かべる「私と大叔母の間にあるいくつもの産物」は、常に仙台の美容院の中にある。

 大叔母が亡くなってから相当な対価を支払って私の夢に出てきたのか、亡くなる前にコスパを意識して焦って出てきたのか、どちらかはわからない。しかし、こういったオカルティックな事柄が存在するという前提をとるならば、魂がどこかに抜けていく前後、大叔母はきっと私のことを考えていたと、そう思いたい。

 別のオカルティックな話を、私はどこかで耳にしたことがある。これもまた、X(旧Twitter)だったような気がする。
 生きている人間が死んだ人間を思い出したとき、天国なのかどこかにいるその死者の上に光の粉のようなものがキラキラと降るのだそうだ。
 ならばもう一つ、そういった奇妙なことは存在するのだという前提で、起きることがある。
 きっと死んだ先の世界にいる大叔母の頭上には、定期的に光の粉が降る。私が死ぬまでそれはきっと続く。パーマ剤の匂いや狭い階段、一緒に手をつないで歩いていった近所の、まだファミリーマートになる前のサンクスなどの記憶がふとよぎったそのときに、光の粉が降る。

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