大学生活が始まった33歳の冬

1997年の1月にサンフランシスコにある公立大学に編入した。短大に1年間在籍した分の単位はすべて移行することができた。学年的には2年生になるが、大学を必ず4年で卒業するとは限らないので、学年はあまり大きな問題ではない。また日本の大学のように留年という制度も少なくとも私の大学ではなかった。

それまで通っていた短大と同じように、前期と後期に分かれたセメスター制だったが、早く卒業したい場合は、サマークラスと呼ばれる夏休みの間に開かれる授業で単位を取っていく方法もある。特に私の場合は在籍が長ければ長いほど生活費がかさんでしまうので、できるだけ早く卒業しなければならなかった。

一方で無理に授業を取りすぎると勉強する時間もなくなり良い成績を残すことが難しくなる。就職に有利に働くように良い成績を残すことは必須だった。

編入して最初のセメスターは4科目を取ることにした。そのうちの1科目は英語だった。なんとこの大学では英語が母国語ではない学生のためのクラス(ESL=English as a second language)が英語の授業として認められており、単位を取ることができた。これはもう本当にありがたい制度だった。ネイティブスピーカーと一緒に英語の授業なんて受けられるわけがない。最初から思いきりハンディがついてしまう。

英語のクラスのほとんどはアジア人だった。サンフランシスコは全米の中でも特にアジア人の比率が高い。大きなチャイナタウンもある。中国語が話せれば英語が話せなくても十分に暮らしていけるくらいチャイニーズの人口比は高かった。
数学もとった。私の専攻は経営学だったので数学は必須だったのだ。驚いたことに日本では完全に理数系の落ちこぼれだった私が、数学の授業でAを取ることができた。ちなみに成績はABC形式でプラスやマイナスがつく。例えばA+が最も高い成績でD-が一番低い成績。Fが付いたらそのクラスからは落第ということになる。

数学がびっくりするほど簡単なのだ。おまけに数字というユニバーサル言語を扱うので、英語のハンディは成績に影響しなかった。この私が数学でAを取るなんて、信じられなかったし、もしかして理数系の才能があったのかもと、つい勘違いをしてしまいそうだった。

私の英語のレベルは、アメリカ移住当時に比べればかなりまともになってきた。ロバ(当時のボーイフレンド)とほぼ毎日会話していたことも英語の上達につながったと思う。それでも授業中に発言するには思いきり勇気がいった。

大学生になったんだなー、と芝生が広がる中庭を抜けて授業のある建物に向かいながら実感した。

高校卒業後、美大受験に失敗して結果的に専門学校に入ることになった。父にはどこでもいいから今から受験できる大学に行けと言われたけれど、18歳の私は美術系の勉強と仕事にしか興味がなかった。今にして思えば芸術という分野は、勉強嫌いで学校嫌いの自分が唯一逃げることができる場所だったのだと思う。才能はなかったし、それは美大受験の準備をしているときからわかっていたことだった。実技という絵を描く科目は見た目にすぐわかってしまう残酷なものだ。私よりも100万倍上手に描ける人たちがたくさんいたのだ。勝てるわけがなかった。それでも逃げる場所を失いたくなかったので美術の世界にしがみついていた。

その後グラフィックデザイナーになり、デザイナーからマーケターへ転職した。実世界にでてみてやっとあきらめることができたのだ。早い時期に見切りをつけてしまってよかった。あのままグラフィックデザイナーの仕事にこだわっていたらいまごろ底辺でうろうろするクズみたいなデザイナーになっていたはずだ。

大学への編入とともに誕生日が来て、私は33歳になっていた。

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