INTPが好きな映画とは?-ランキングを付けて考える-
以前はめっきりなかったのに、最近になって、映画をよく見る。映画は、人々が様々な形でこの世を生き抜いていることを教えてくれる。人生は、パレードみたいにカラフルで主体的なものから、雨の日の道路に捨てられた段ボールみたいにみすぼらしいものまで、玉石混淆だ。様々な映画、もとい人生に出会うたびに、私も数ある人生の一つを辿っているにすぎないのだと思い出して、安心する。
今記事では、最近見た映画からTOP3を決めて感想を語ると共に、MBTI診断での私の属性、INTPの思考回路を掘り下げていけたらと思う。
MBTIとは
MBTI診断をご存じではなく、興味がある方は、以下に公式サイトを貼っておくので、ご確認いただきたい。
教えて!MBTI® MBTIを正しく認識していただくためのQ&A | [公式]日本MBTI協会
簡単にいうと、93問の問題から、以下の要素(①E外交・I内向② S感覚・N直観 ③F感情・T論理 ④P知覚・J判断)を導き出し、性格を16タイプに分けるというものだ。
16タイプのそれぞれに、さながら物語の登場人物のような属性が名付けられている。例えば、ENFJは「主人公」。ISFPは「冒険家」。などなど。私のMBTIであるINTPは「論理学者」というキャラクターだ。これだけで、いかにも理屈っぽい性格であることが伝わるだろう。
このごろ観た映画達
閲覧して下さっている方々は、このような経験はないだろうか。
みんなが感動すると言っている映画の良さがいまいち分からない。恋愛映画が突拍子もないように見える。感情的なシーンで没入しきれないことが多々ある。この、どちらかというと少数派の感性のせいで、絶対号泣する!と、世間から太鼓判を押された映画もピンとこない。
では、何が私たちを揺さぶるのだろう?
そんな疑問に立ち向かうべく、さっそく最近見た映画を以下に箇条書きし、一言ずつ感想を添えてみた。ここからさらにランキングを決定し、いったいどんな作品の、どんなところが私を揺さぶるのか、その傾向を観察していきたい。
「Armageddon」(1998)
地球の危機を救うために立ち上がった男たちのSF映画。
親子喧嘩から始まる導入が面白かった。
「風が吹くまま」(1999)
とある小さな村を取材しに行く。
途中で寝てしまった。
「スロベニアの娼婦」(2009)
個人で水商売をする女子大生が事件に巻き込まれていく。
酷く加害的に見えたベッドシーンが忘れらない。
「CODA」(2021)
聴覚障がい者の両親を持つ少女が、音大を目指す。
自由と家族愛の二律背反が見どころ。
「コナン ハロウィンの花嫁」(2022)
コナン君一行が爆弾魔の犯行を阻止しようとする。いつの間にか作品全体のストーリーが進んでいてびっくりした。
「ぼくらの7日間戦争」(1988)
厳しい教育に耐えかねた子供たちが、秘密基地を拠点に大人たちに立ち向かう。
締りのないエンディングは、大人への社会的なメッセージにも思えた。
「シン・ゴジラ」(2016)
突如現れた巨大生物から日本を守ろうと、国家機関の人達が頑張る。
政府も、ただの人間が単位で構成されていることを教えてくれた。
「スイートプールサイド」(2014)
毛が無いことで悩む少年と、毛が濃いことで悩む少女の青春恋物語。
映像の撮り方や演出が好みだった。
「宇宙兄弟」(2012)
兄が弟の背中を追う形で、宇宙飛行士になることを決意する。
勇気がもらえちゃう。
「The Exorcist」(2023)
悪魔に取りつかれていた愛娘のために、父親がいろいろな解決策を模索する。
地獄への恐怖心から入信するケースがありえることに気がついた。
「海獣の子供」(2020)
少女が水族館で不思議な男の子たちと共に海の神秘に巻き込まれる。
ジブリ作品と同じように、絵で説得させてくるタイプの作品。
「テルマエ・ロマエ」(2012)
ローマの設計士が日本に転移し、風呂を学び、祖国に献上するコメディ。
阿部寛は本当に日本人なのか?
「6hours」(2019)
女性が裸で土の中に6時間潜る、20分ほどのショートムービー。
今からでも手に取れる現実感があって、不思議な気分になった。
「Never lost」(2011)
亡き彼女が忘れられない主人公は、薬の過剰摂取でその子に会うようになる。
映画を観終わった後も思い出して、考察してしまう。
「The platform」(2019)
主人公が目覚めたその場所では、飢える者と豊かな者がいた。
個人間の視点から問題がいかに複雑であるかを語ることができていた。
「地球、最後の男」(2011)
宇宙に取り残された男が、孤独と戦う映画。
けっこう意味不明だったが最後に出てきたワードがたまに頭をよぎる。love
「希望の灯り」(2018)
スーパーの在庫管理で働くことになった男性が、職場の女性に恋をする。
寡黙な主人公のことを、映画が進むにつれ、少しずつ好きになった。
「Leningrad Cowboys meet Go America」(1989)&「Leningrad Cowboys meet Mose」(1994)
ロシア出身のバンドマンであるカウボーイ達がユーモラスに突き進んでいく。
世界観のシュールさがマジでツボ。刺さる人には絶対に刺さる。
「こんなにも君が好きで」(2019)
ベトナム人の同性愛者のカップルが、国の文化と幸せをすり合わせていく。
恋愛はもちろんだが、家族愛にも触れられていた。
「Summer of 85」(2020)
海で出会った青年達は惹かれあったものの、一番残酷な形で別れてしまう。
物語の端々にある言葉や行動から、考察が広がっていくような感覚があった。
「La La Land 」(2016)
人々の憧れの町、ハリウッドで夢を追う男女の恋物語。
独特のカメラワークが、めくるめく映像を作り上げているように思った。
「A Man Called Otto」(2022)
自殺を目論むオットーが、近くに越してきた家族と関わるにつれ変化していく。
ストーリーだけでなく、エンディングまでよかった。
ランキング
ここからはランキングと、そのあらすじを振り返りながら、映画の感想に入ろうと思う。ネタバレありで語るので、どうか自衛してほしい。
このランキングを決めることは、思っていたよりも、ずっと難しかった。一つ一つの映画が、大切な思い出となっていたからだ。先が見えないほど長い人生のうちの、たった2時間程度の絵空事が、こうも自分のなかにハッキリ存在していただなんて、思いもよらなかった。そのため、下記に名前がない映画も、等しく私の中に存在している。
1 「希望の灯り」(2018)
舞台は旧東ドイツの巨大スーパーマーケット。無口な青年、クリスティアンは、そのスーパーで在庫管理係として働き始める。彼は同じ職場の、マリオンに恋をする。クリスティアンの上司のブルーノは、そんな二人の行く末を静かに見守っている。
この映画は素朴だ。舞台となるスーパーは、学生でもバイトで働けるような、いたって平凡な店舗だ。登場人物たちも、やっぱりふつうだ。顔や手足のシワからは、特別なことなんてなんにもないような生活感が漂ってくる。私はそれまで、銀幕の先にはいつも、非日常が続いていると思っていた。でも、その先には代わり映えしないただの人間がいるらしかった。これに、なんだか感動した。私たちは地続きに存在しているのかもしれない、と思えた。
クリスティアンとマリオンは少しずつ親密になっていく。だが、マリオンには夫がいた。だから、2人は熱っぽい視線を交わすことしかできなかった。近づけば、後は離れていくしかなかった。クリスティアンはそれに参ってしまった。朴念仁の彼から漂う哀愁は、稲一つ残さず刈り取られた田園に、ひとり残されたカカシみたいにだった。そんなクリスティアンを見かねて、ブルーノが衝撃的な事実を耳打ちする。なんと、マリオンの夫はDV野郎らしいのだ。クリスティアンの恋慕は、再び燃え上がる。
そうして、クリスティアンは、マリオン夫妻の家に忍び込んだ。うららかな春が始まったばかりの、日差しが眩しい日のことだった。自分の新居になるみたいな態度で徘徊して、不遠慮に家具や散らかった小物や書類を観察する。最後に、シャワーを浴びるマリオンの影と鼻歌を見守ってから、何をするでもなく、花一輪を残して去っていった。マリオンはテーブルに置かれた小さな花をみて、クリスティアンが訪れたことを悟った。それから2人は、再び心を近づけていくことになる。
そんな、慎ましやかな幸せが戻ってきた矢先だった。ブルーノが自殺した。そんな予感は、いままでに一抹もなかった。
わたしはこのブルーノという人物を気に入っていた。響きがbloom(咲き誇る)みたいで可愛かったし、仕事を適当にサボる姿は親しみやすいものだった。職場には一緒にボードゲームをする友達もいたし、部下は順調に育っていっていた。うまく生きているように、少なくとも、私の眼には映っていた。しかし、彼は孤独だったそうだ。妻と住んでいると周りには言っていたが、実際は一人きりだった。
ブルーノが居なくなって、クリスティアンは昇進した。誰も、本人すら望まない出世だった。
クリスティアンはブルーノが操作を教えてくれた機械を使って、今日も在庫を陳列する。荷物を上げ下げする。クリスティアンの元にやってきたマリオンが、これはブルーノが教えてくれたことなんだけどね、とクリスティアンに機械を操作するように促す。言われるがまま、機械の首を動かす。ジーーーと、音が鳴る。
「こうすると、ほら、海の音がする」
わたしは、そうとは思えなかった。ジーーーと唸りながら首を上げる機械は、首つり縄を思い起こさせたからだ。吊り上げられた寂しい死体を連想せずにはいられなかった。
正直、この映画を、おもしろいとは思わない。なんなら途中で退屈だと感じたし、決定的に印象に残る撮影や美術でもなかった。(そういう演出なのだろうが)だが、この中で1番好きな作品だ。2人の恋は優しくてままならないものだったし、ブルーノの死は唐突で受け入れられないものだった。
無尽蔵な時間が流れているこの世の中で、私たちの人生は退屈なものだろう。人の死なんて、1年経てば意識していない日の方が多いのだろうし、愛や恋もやがて穏やかな形に変わったり、消えていく。わたしには、この当然のことが、どうしても切なく思える。うまく飲み込められずにいる。だが、わたしと同じように退屈に続く人生の一つを見たことで、誰かのささいな息遣いや親指のささくれにまで愛情が沸いてくる気がする。この映画は、私たちのすぐそばにあるものを丁寧に拾い集めたものではないかと感じた。
2 「Neverlost」(2011)
この映画は、とにかく冒頭がおしゃれだ。一定のリズムと共に、彼が眠っている間に観た夢が流れてくる。後から模写したくらいだ。
ジョシュは最愛の恋人ケイトを亡くしてから、医者が処方する睡眠薬を過剰に服用することで、夢の中でケイトの幻と逢瀬を重ねるようになっていた。そのことが医者にばれて、薬を貰えなくなると、薬局から盗んだ。ジョシュには、そこまでして夢に向かうべき理由があった。その世界でケイトとジョシュは、命の危機に晒されているからだ。夢の中は、最初は優しいユートピアだった。ジョシュは清涼なベットのに寝っ転がっていて、ケイトはいつも優しく微笑みかけてくれた。だが、闖入者が現れた。ケイトを殺した犯人である、ケイトの実父が現れたのだ。ケイトの父親は、遠い昔に、好きな人をジョシュの父親に盗られたことのあった。逆恨みの末、恋敵の血筋に一人娘であるケイトまで奪われてはたまらないと、二人の住まいに放火し、ケイトごとジョシュを焼き殺そうとした。だからケイトは死んだ。そのとき、ジョシュは外出していた。
夢の中に現れたケイトの父親は、再び2人を破滅させようと目論んでいるようだった。父親の犯行は早かった。ジョシュを無人のあばら家に連れ込み拘束し、その家を燃やした。ケイトが助けに来てくれたから命は助かったものの、ジョシュは生命維持装置なしでは生きられない状態にまで陥ってしまった。寝たきりのジョシュを慈しみ、熱い涙を流すケイトの姿は、とてもジョシュが生み出した幻とは思えなかった。夢の世界では昏睡状態のジョシュだが、現実ではとうとう最悪の罪を犯してしまった。薬の勢いで、人を殺してしまったのだ。なにも殺すつもりじゃなかったが、適当に振りまわしていた割れた酒瓶が、たまたま相手の喉に突き刺さってしまった。こうして、窃盗の上に殺人まで犯したジョシュは、投獄された。
幻であるはずの世界がこんなにも生々しいのは、どちらが現実か観客を混乱させる演出になっているだけではなく、現実よりも分厚いなにかが存在することを表しているようだった。はたからみたら愚かな薬中のジョシュだが、彼の中には現実よりも大切にしたいものがある。愛するケイトとの安寧だ。そして、わたしにも現実より大事にしたいものがある。ジョシュと同じような、理想とか憧れだ。わたしはいつからか、可哀そうで愚鈍なジョシュに共感して映画を観ていた。
ジョシュの独房と向かい合わせの独房に、見覚えのある男がいた。ケイトの父親だ。ケイトの父親はこちらを一瞥すると、落ち着いた様子で本の続きを読み始めた。それから、ジョシュは父親を見つめ続けた。いかなる時も、その目線を離さなかった。ケイトの父親は、まったく目を合わそうとしなかった。その生活がしばらく続いた。ある日、ジョシュは首を吊って自殺した。やっぱり、ケイトの父親を眺めながら。
獄中のジョシュが自殺すると、夢の中の寝たきりのジョシュの命も途絶えてしまった。ケイトは、眩い光で霞むバルコニーに走っていき、飛び降りた。
この作品は、決して後味のいいものではないだろう。ただ穏やかな暮らしを望んだカップルは破滅したし、ケイトの父親は徹頭徹尾、憎たらしかった。だが、こういう胸糞の悪い映画に、私はときどき価値を感じる。こういう作品は決まって、弱い人に寄り添ったものだからだ。
強い人とは、苦しみを乗り越え、己の糧にできる人のことだ。弱い人は、苦しみに打ちひしがれる人のことだ。私たちは、ときには強い人でなれるし、ときにはとても弱い人になってしまう。必ず、どちらでもある。なので、相手にどういう印象や偏見をもってしまったとしても、相手が弱い人でもあることを視野に入れなければならない。一見くそ野郎なジョシュがただ暖かな世界を望んでいたように、人々にもなかなか見えないけれど重要な一面があるのだから。
3 「The platform」(2019)
その建物は何階建てか分からない。どの部屋の中央にも穴があり、そこを通って、プラットフォーム呼ばれる台座が降りてくる。プラットフォームには絢爛豪華な食事が用意されており、人々は、それが部屋に留まる数分間だけ食事をすることが出来る。プラットフォームから取り出した食べ物を部屋に蓄えようとすると、部屋の温度が徐々に上がり、焼き殺される。
プラットフォームは上から下へと移動する。つまり、下の階の者は、上の階の者の残飯を食べることになる。つまり、2層に居るものは1層の者の食べ残しを、3層に居るものは、2層の者の食べ残しを食べることになる。各部屋に2人ずつ人がいるから、47層で目が覚めたゴレン達は、上の階に居た92人の残飯を食べることになる。だが、同じ状況は長くは続かない。1か月で階層は変わる仕組みになっている。
結果的に、ゴレンは半年もたたないうちにこの建物を去ることになった。ゴレンは、はじめは47層、次に171層、33層、202層、最後に6層に居た。ゴレンはルームメイトを食べることで、171層や202層を乗り越えた。だが、進んで人殺しになったのではない。不幸な事故が連続して、それらがつぶさに命を繋ぐ糧となったのだ。ゴレン自身は、たった一つだけこの建物に持ち込めるものに本を選んだような穏やかな人間性の持ち主だ。
ルームメイトの一人に、イモギリという女性がいた。彼女は、33層と202層でゴレンのルームメイトだった。彼女は犬を自分のたった1つとして連れてきた、変わった女性だった。
どこかのシーンで、彼女は自身の半裸をゴレンに見せたことがあった。彼女の胸部には茶色いケロイドが占領していた。彼女は自分が乳癌であったこと、手術をしてこうなったこと、犬を愛していることを教えてくれた。彼女は不思議な魅力を持った人だった。優しく包容力のある長髪の女性でありながら、どこか男性的な雰囲気があった。たぶん、骨っぽくてごつごつしていそうな肩と、ハスキーな声がそうさせたのだろう。自信をもって穏やかに微笑む姿は、父性的な安心感を与えてくれた。
だが、死んでしまった。イモギリは首を吊って死んだ。ゴレンが202層で目覚めたとき、初めに目の端で捕らえられたのは、彼女の大きくて立派な足がゆらゆら揺うところだった。ゴレンはイモギリの死体を食べて命をつないだ。あの茶色いケロイドも食べてしまったのだろうか。
ゴレンは6層で目が覚めた時、人々のために自分の命を賭けることを決心した。プラットフォームを使って下に降り、自身の手を使って、みんなに少しずつ食事を分配する。そして、誰にも手を付けられなかったパンナコッタを建物の管理者にみせつけ、現状を変えるように説得するのだ。
建物は333層まで続いていた。最下層には、小さな子供がいた。この建物には年齢制限があるので、本来ならばあり得ないことだった。ゴレンは、餓えた子供にパンナコッタを食べさせてあげた。
プラットフォームには子供を乗せることにした。1番下まで辿り着いたプラットフォームは、高速で上昇し、管理者のもとへ戻るらしい。パンナコッタは叶わなかったが、傷ついたこの子供こそが管理者へのメッセージになるだろう。
子供だけを乗せたプラットフォームは昇っていく。ゴレンは、暗闇に吸い込まれるように去っていった。
この映画は、資本主義社会の縮図だと考察されているが、明確な意見や啓蒙は感じられない。共産主義を称えることも、上の階の者が行動すべきだというメッセージもない。最後に登場した子供にこそがメッセージを含んでいそうだが、最下層に居たのにも関わらず清潔で健康的な見た目だったことから、あれはゴレンの幻覚だったと考察されている。そうすると、ゴレンたちは結局、管理者になにも届けられなかったことになる。こういった、いろんな可能性を残したストーリーに、わたしは憧れる。
オッペンハイマーで話題のノーマン監督がインタビューで述べていたことで、深く感銘したことがある。彼は、映画という媒体が自分の興味があることを、なにかメッセージに変えて観客に伝えてくれる、と考えていた。「The platform」はその点において、適格に映画という媒体の特性をとらえていたように思う。
上記の多くは、わたしの中で勝手に補完されたものだ。なので、映画を知った人が見れば、違和感を感じるかもしれない。だが、そうした解釈も丸きり「感想」とここでは呼ばせて頂きたい。わたしはあまり記憶力が良いほうではないので、所々間違えていると思う。どうかご容赦頂きたい。
INTPを揺さぶるもの
それでは、結論に入ろうと思う。MBTI が INTP で、理屈っぽい私の心を揺さぶる映画は、教訓や学びを得られるものだ。
ただ感動したり、悲しんだりして終わってしまう映画よりも、今後の人生や価値観に影響するものを好むことが分かった。もちろん、そういう映画に価値がないとは思わない。大いにある。それは、私たちにとって必要なことだろう。だが、私の場合、感情に終着点を求めてしまう。人を好きになったならその人にとって親切でありたいし、嫌いになったのなら距離をとりたい。映画で感動したのなら、どこに感動したのかを分析し、自身の制作時に模倣したい。美しい場面に出会えたのなら模写したい。たぶん、感情をそのまま受け取ることが苦手なんだと思う。私にとって感情とは、あまりにも強烈すぎて受け入れきれないものだ。9月の台風みたいに頻繁で、どうしようもなく、ただ部屋にこもってやり過ごすしかない。カテゴライズしたり結論を作り出すことは、台風の日に家に籠ることとそう変わらない。そういう方向に逃げ道を設けた結果が「論理学者」なんだと思う。感情を感情のまま受け止められた人は、共感性を逃げ道とするのだろうか。
感情的なエンドで締めくくられた作品は、作中の登場人物に深く共感することで最大限のおもしろさが引き出せるのだと思う。だが、私はそれが苦手だし、したくない。それは、丸裸で海底を1時間さんぽしてくるように命令されるのと同じようなことだ。どこか俯瞰した視点から見ても楽しめるもの、登場人物の感情に依存せず、作品全体で見たときに何か得られる作品が私向けだと思う。
感想
以上のことを通して、自分の性格が大きく映画の好みに影響していることが分かった。昨今、注目を浴びているMBTI診断に当てはめて自分を考えることは、とても面白かった。自分の論理性と好みがこんな風に関連付いていることを知れたのは、ほかでもないMBTI診断のおかげだろう。MBTI診断は科学的根拠が不十分であることがたびたび指摘されているが、こんな風に自分を知るきっかけになるのなら、どんなかたちであれ、素敵なものだと思う。
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