『膝』(小説)

 夜、見慣れないアパートの504号室の玄関が開くと、知らない男が立っている。グレーのスウェット、グレーのパーカー、グレーの靴下、暗い顔。髪はウルフマッシュで黒く、前髪の下の三白眼はわたしの足元を見ている。こんばんは、と挨拶をして、マスクの中で笑顔を作る。こんばんは、と男が返す。低く落ち着いた声がする。
「外、寒かったですよね?」
 ですね、と答えて、中に入る。鍵の閉まった音がしたので、オートロックだと判明する。男と目が合い、すっかり秋だね、と言おうとしたけどやっぱりやめた。私は笑顔を作ったまんま、会釈をしてから下を見る。玄関の床、白いタイルが輝いている。黒い革靴とシングルバンドの紺のサンダル、ダブルベルトの白いサンダルが置いてある。紺のサンダルは底がすり減って、バンドの部分に裂け目がある。
 バ、と男は何か言いかけて、右足を一歩前に出す。右手がわたしに差し出される。
「バ?」
「すみません、バッグ。バッグ、お持ちしましょうか?」
「紳士だぁ。持ってくれるの?」
「靴脱ぎにくいかなぁと思いまして」
「じゃあお言葉に甘えて」とわたしは言って、男の右手にバッグをかける。靴を脱ぎ終えて、鼻で呼吸を整える。男がわたしにバッグを返す。
「こちらです」
 男がわたしを案内する。玄関近く、両脇に白いドアがある。壁も白い。廊下は暗い茶色の木目調。廊下の奥にもドアがあり、そのすぐ近く、右手側にはキッチンがある。二つのIHコンロの脇には醤油とみりんとオリーブオイル、開封済みの食パンが見える。向かいの壁には日本画の色紙が二枚飾ってある。誰の作品かわからないけど、それぞれ女が描かれている。
「絵が好きなんだね」とわたしが言うと、男の右手はドアノブにある。好きでも嫌いでもないんですけど、と言いながら彼が振り返る。
「この二つの絵は一目惚れです」

 部屋に入ると、いい匂いがする。
「いい匂いがする」
「ありがとうございます」
 左側の壁にベッドがあって、男はそこに腰掛けている。彼の右手の人差し指がベッドの前のテーブルを向く。背の低い木製テーブルの上にキャンドルが一つ焚かれている。赤いキャンドルホルダーの内に小さな火、天井目がけて揺れている。
「上海の香りなんです」
「上海?」
 ほらここに、と男は言うと、上体がテーブルに近づいた。人差し指から伸びた爪がキャンドルホルダーに当たっている。ここ見えますか?
「英語で上海って書いてます」
「ほんとだ、SHANGHAI」
「うまいですね、発音」
 でしょ、とわたしは言おうとしてやめて、虚心坦懐なふりして、SHANGHAI。

 ドアの近くで両膝をつき、着ていたコートを脱いで畳む。
「ちょっとお店に電話するね」
 右側の壁に沿って背の高い机が置かれている。机の左に組み替え可能の棚がある。その棚の横にバッグを立て掛け、中からスマートフォンを取る。パスワードを入力して、ホーム画面に移行する。画面の一番下にある、電話マークをタップする。呼び出し音が聴こえてくる。お疲れさまです。
「着きました」

 その場で立って、男にそっと視線を向ける。一万七千円です、の語尾の『です』だけ声を高くする。男がベッドから腰を上げる。カーテンレールの右端に白いS字型フックがある。そこにかけてある黒いポーチから男は財布を取り出そうとして、おつりってもらうことできますか?
「大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
 男はポーチを覗きながら、一万円札一枚と五千円札二枚を左手で抜く。わたしの前まで三歩で近づく。
「これでお願いします」
 計二万円を受け取って、わたしは男に背を向ける。両膝をつき、会計用のポーチを取り出す。ファスナーを開け、三枚の紙を揃えて入れる。それから左半身を男に向けて、おつりって、と冗談めかした高い声で言う。
「いるんだっけ?」
「このマンションの近くに警察署と交番があるんです」
 男が鼻で息を吐く。わたしは千円札を三枚取り出し、しょうがないなぁと言ってから渡す。男はおつりを両手で受け取る。わたしに背を向け、四歩使って遠ざかる。ポーチに三千円を入れる。窓側のレースカーテンを部屋側にある薄緑色のカーテンで隠し、男は再びベッドに座る。わたしは男の右側に座る。男は視線を前に向け続け、わたしの方を見ようとしない。これからえっちなことをするのに、男の顔には勃起の『ぼ』の字も浮かんでない。せっかく大きい胸があるのに、彼の表情に曲線がない。そんなに暗い顔するんだったら、いきなり触ってびっくりさせる?
 左手を男の太ももに添え、今日は指名してくれてありがとね。棚にはたくさん本があるから、いっぱい本を読むんだね。
「学生さん?」
「今年の春に入学しました」
 とりあえず褒めてあげればいいので、まだ若いのにたくさん本を読んでてえらいね。
「ナミキさんも十分若いじゃないですか、二十四って書いてましたけど」
 男はまだ前を見ている。彼の両手は膝の上に拳を作って置かれている。わたしは左手をさっとずらして、男の右手にそっと被せる。
「時間ないからシャワー浴びる?」
 シャワーは、と言って男がわたしの左手を外す。
「浴びません」
「浴びなきゃえっちできないよ」
「しなくていいです。そんなつもりじゃないので」
「え?」
 ごめんなさい、ナミキさんをからかってるわけじゃないんです。部屋に入って初めて目が合う。
「他にしてほしいことがあって」
 何してほしいの? わたしは首を右に傾いで、SHANGHAIには行かないよ。
「上海?」
「ごめん、なんでもない」
 男が口から息を漏らす。ひ、と聞こえる。
「ひ?」
「膝……」
「膝?」
 男がわたしの脚を見る。膝枕を、とゆっくりと言って、わたしの顔に視線を戻す。
「膝枕をしてほしいんです」
 めっちゃ楽じゃん、めっちゃ楽か? とわたしは思う。

「実は先月、母が死んだんです。僕が一人暮らしを始めてから安否確認とか言って毎週金曜日の夕方に母から電話がかかってきてたんですけど、あの時はかかってこなくて。まぁそんな日もあるよな、どうせ明日かけてくるだろ、とか思って夜ご飯のスパゲッティ茹でようとして塩を鍋に入れようとしたんです。その時、電話が鳴りました。父からでした。携帯の充電が切れてるから父のスマホを借りてかけてきたんだろうな、と思って手に持ってた塩を鍋の近くに置いて電話に出たら、かけてきたのは母じゃなくて父でした。父は僕に言いました。僕は父から、母が車とぶつかって死んだって聞いたんです。鍋に入れてた水が沸騰して、キッチンに湯気がひどく充満してて、なんでこんなに湯気があるんだろうって思ってたら、換気扇をつけ忘れてることに気が付いて、で、それで、スマホを耳にくっつけたまま、僕は換気扇をつけたんですけど、あれ、でももしかしたらスパゲッティ茹でる必要ないんじゃないかなと思って、でもなんでお腹空いてるのに茹でる必要ないのかとも思って、で、換気扇の音で聞こえにくかったんですけど、父の声に耳を澄ましたら、父は何度も僕に謝ってました。なんで謝ってるのかわからないというか、まぁなんて言うんでしょう、頭がぼーっとしてました、僕は。僕は頭の中がぼーっとしてたんです。それで、ぼーっとしながらスパゲッティ茹でても仕方ないなと思ったかどうかはわからないですけどとりあえずコンロを切って、そこで初めて僕は父に聞き直しました。ごめん、もう一回言ってって。そしたら父は確かに、ごめんな、母さん死んでしまった、ごめんな、ほんとにごめんなって僕に言いました。聞き直して初めて、しっかりと声を聞き取って初めて、父の言葉が単なる音じゃなくて意味を持ったような、そんな感覚でした。母が死んだ、その意味を僕は理解しました。でもそれから父と電話で何を話したのか覚えていないんです——」
 男が一つ咳払いをして、わたしは気付く。話が重くて、ちょっと怖い。いきなり話が重過ぎない? と言おうとしたけど、口にはしない。こういう時は相手のことを理解するよりも、同意してあげると喜ぶか?
「辛かったよね」
 男が頭をちょっと縦に振る。部屋の光源は上海の香り振りまくキャンドルだけで、火が揺らめくと、壁まで伸びている影が踊る。わたしはベッドに正座している。足の親指をわずかに重ねて、背中を壁に預けてる。壁が冷たい。背中が冷える。男は左頬を下にして、頭をわたしの太腿に乗せ、声に空気を混ぜながら話す。ゆっくりとした語りにわたしは耳を澄ませて、時々反応してあげればいい。
「ごめんなさい、いきなりこんな話しちゃって」
 大丈夫だよ、と言ってあげる。ほんとは大丈夫じゃないけどね! とわたしは思う。
「足、痺れてないですか?」
「まだ大丈夫」
「大丈夫じゃなくなったら教えてください」
「ありがと」
 優しいね、と褒めてあげると大体の男はプレイがかなり雑になるけど、彼はなんにもしてこない。男が頭の位置を整える。伸びた襟足が腿を舐める。男は三回鼻をすすって、気が付いたら新幹線にいました。
「自由席でかなり空いてたんですけど、座る気になれなくて、ずっと喫煙所とかあるスペースに突っ立ってたんです。出入り口の窓からは暗い景色しか見えなくて、トンネルに入ったらもっと暗くなって、他の新幹線とすれ違う時は変な音が聞こえて、すれ違わなくなったらまた暗い景色に戻って、そしたらまたトンネルに入って、もっと暗くなったんですけど、その間も僕はずっと立ってたんです」
「座ればよかったのに」
「ですよね。でもなんかその時は、座ったら何もかも見えなくなってしまうような気がして」
「座ると涙が溢れてくる」
「それが、泣けなかったんです。母の亡骸を見る前も、見ている時も、見た後も、涙は一滴も流れませんでした。どうして泣けないのか、親が死んだら絶対泣くと思ってたのに、いざ死んでみたら、いざ死んでみたらっておかしな言い方ですけど、まぁとにかく泣けませんでした」
「親が死んだら泣かなきゃいけないものなの?」
「え?」
 男の頭に左手を当て、泣けなかったよ、と言ってみる。あとは適当に話してみよう!
「わたしも泣けなかった」
 わたしの場合は急にお別れがきたわけじゃなくて、むしろお別れするのはわかってたんだ、あと半年って告げられてたから。わたしもね、と言って下を向き、一呼吸したら前を見る。
「お母さんを亡くしたの」
 わたしもお兄さんと一緒で泣けなかった、泣くだろうと思ってたけど、涙が一滴も流れなかったの。むしろ闘病中には毎晩泣いてた。お母さんがもう元気になることはないんだと思って、でもどうして元気になることはないのか理解できなくて、理解できないからお医者さんの前では無理なことを言ったり、恨み言を言ったりもした。全部わたしのわがままなのに、お医者さんはそれを全部受け止めてくれたし、隣にいたお父さんはずっとわたしに寄り添ってくれた。
「それでもわたしはお医者さんがわたしの言葉を軽く受け流してるんじゃないかと思って、ある時そのお医者さんにとても悪い言葉を使ったの。お父さんだってわたしの気持ちをわかっていないと思ってたから、お父さんにもとても悪い言葉を使った」
 今思えば馬鹿げてた。時々その時のことを思い出すと笑えてくるんだ、と口にして笑う。男は黙ったままでいるし、アロマキャンドルの火は揺れない。
「だからね、だからでもないけど、泣かなくてもいいと、わたしは思うんだ」
「涙が出る時は出るし、出ない時は出ないってことですか?」
 だってさぁ、と、思い出してみてほしいけど、で迷ってから首をちょっとだけ左に傾け、だってさぁ。首を戻して、鼻を使って深呼吸する。
「わたし泣こうと思って泣いたことないもん」
 男の頬が斜めにずれる。笑っているのかわからないけど、彼が少しでも笑っているならわたしは笑ってあげなきゃいけない。男が笑っていないとしても、薄暗いからわたしが笑っているのはバレない。だからわたしは笑ってみる。

 男が膝枕はもういいと言ったので、二人並んで壁にもたれた。わたしは痺れかけた足を伸ばして、男は体育座りをしている。下半身にはもこもこの布団がかかって温かい。壁は冷たい。静寂になると時間の経過が遅く感じる。男がなんにも話さないなら、わたしは話題を作ってあげる。めんどくさいけど作ってあげる。そういえばさ、と言って男の肩に頭を乗せる。両手を使って右手を握り、なんでわたしを指名したの?
「手を離してくれたら教えますけど」
 寒いからつないでたいなぁって言ったら、興奮する?
「寒いからつないでたいなぁ」
「布団の中だから寒くないと思いますけど」
「お兄さんは寒くないの?」
「火を見てるから寒くないです」
 いや寒いでしょ、とわたしは思う。だって男の右手は冷たい。
「じゃあさ、わたしが寒くなくなるまでならいい?」
「それまでなら」
 ありがと、と言って、少しだけ、男の腕に胸を当てる。
「それでなんでわたしを指名したの?」
「なんとなく」
「なんとなくって、そんなわけないでしょ」
 Hey, Siriあと何分? って聞きたいのを我慢する。ほんとは? と代わりに聞いて、胸を押しつける。
「似てたんですよ、雰囲気が」
「似てた、誰に?」
「母に」
 お兄さんのお母さんに? わたしは優しく問いかける。でも内心はめっちゃきもい! めっちゃきもいとわたしは思う。それでもやっぱりこの男はきっと喜ばせてほしいだろう。だからわたしは動揺なんてしちゃいけない。今はこのままじっくりと、二人並んでキャンドルを見よう! 火が揺れて、壁にかかった影が動く。
「そうなんです——」

 パネルマジックって言うんでしたっけ、お店が出してる写真はあんまり信用するなって月に二回くらいデリヘル呼んでる友人から聞いてて、だからできるだけ長い時間をかけて、家に呼べる範囲にあるお店のサイトを全部見て、それで見つけたのがナミキさんだったんです。ナミキさんの出してたあれ、なんでしたっけ、そうだ、そうだそうだ、写メ日記だ、あれの八月二十三日の投稿にある写真が若い頃の母に瓜二つで。白いTシャツを着て、麦わら帽子被ってる写真です、文章は確か、ビジネスホテルのお兄さん気持ちよくなってくれてうれしかった! また誘ってね! お土産もありがとね! グミは大好きだけど高級グミはほとんど食べないから味わって食べるね! みたいな。あの写真のナミキさんが本当に母に似てて、似ててというより母に見えて、目と鼻の形がもうそのまんまで、特に目だけ見てると母にしか見えなくなってしまって、だからびっくりして、びっくりしたというか、見つけた瞬間に僕の口ガン開きになっちゃって、言葉も出てこなく、マジでビビりましたね、ビビりましたよ、あの時はマジで。
 それで一週間くらい前にサイトの会員登録を済ませて、でもそういうサイトの会員登録するの初めてだったので、少しそわそわしてたんですけど、改めてナミキさんのページを開いて、呼びたい日時と分数を選択して、もちろんオプションはつけずにですよ。でも本当は母の格好をしてもらいたかったので、持ち込みのコスプレを選択しようと思ったんですけど、でも母の格好をお願いするってそんなの無理じゃないですかきっと。きっと無理ですよね、初めて会う人間に事故死した親が昔着ていた服を着てくれって頼まれたら気持ち悪いし、そもそも衛生的に可能なのかどうかもわからなかったですし。だから正確に言うとオプションでコスプレをつけようとしたけど諦めたって感じです。
 こうして今ナミキさんの実物を拝見させていただいてますけど、正直言うとほんとに似てました。やっぱり目ですね、目がもうそっくり、ナミキさんの目はきっと母の目ですよ、母の目、僕の母の目です。目の化粧も母と同じような気がするくらい似てるんですよ、ほんとに。見てみますか、僕の母の目、びっくりするくらい同じですよ。なんで見てくれないんですか? 見てくださいよこの目。もしかしてナミキさんって僕の母なんですか? まぁでもそんなことないですよね、まぁいいや——。

——それでこの部屋に引っ越す日に母が手伝いをしてくれたんですけど、夜に母が近くのスーパーに買い物に行くって言い出して、僕は特に買いたいものなかったんで一緒に行かなかったんですけど、それで母が買い物から帰ってきた時に僕が玄関を開けて、開いたドアの先に母が立ってて、で、何が言いたいかというと、ナミキさんを部屋に入れるために玄関開けたじゃないですか僕が、それがその時の光景とそっくりって言うと言い過ぎかもしれませんけど、引っ越してきた日の母を思い出してしまったんですよ。母は買い物から帰ってきて、ビニール袋から買ってきたものをコンロの上に並べて、冷蔵庫に入れなきゃいけないものは冷蔵庫に入れて、冷蔵庫に入れる必要のないものはキッチンの棚に入れて、それから冷蔵庫をもう一度開けて、缶ビールを取り出して、キッチンに右手を置いて、喉を鳴らして美味しそうに飲んでました。実を言うとそれが母と過ごした最後の時間だったんですよ。母は僕の家の近くにホテルを取ってて、せっかくだから次の日二人で観光しようって話してて、浅草寺と東京タワーに行く予定だったんですけど、急遽仕事が入って帰らなきゃいけなくなったみたいで、始発で帰ってしまいました。始発で帰る時は僕寝ちゃってて、見送ることができなかったんで、ちゃんと早起きしてればよかったとずっと思ってます。じゃあ寝るなよって話ですけど、しょうがないじゃないですか、めちゃくちゃ疲れてたんですよ、引っ越しで。なんで引っ越しってあんなに疲れるんですかね?
 そう考えると引っ越しの次の日に早朝から仕事に行く母ってすごいですよね。やっぱり僕の母はすごい。僕なんか大学の授業以外はバイトとサークルくらいしかしてないのにかなり忙しいふりして、何もない日はずっと寝てるんですからね、やっぱり母はすごいですよ、すごい。それでこの怠惰な忙しさを理由に年末年始だけは必ず帰省するつもりで、夏休みは実家に帰りませんでした。実際スマホがあればいつでも母とやりとりできますしね、同じ場所の空気は吸えませんけど。そしてその環境に甘えてたら結局、次に見た母の姿は遺体でした。母はずっとタバコを吸ってたので、死ぬなら絶対肺がんとか脳梗塞とかだろうなって思ってたのに、交通事故ですよ、交通事故。母の影響で僕もタバコ吸ってるんですけど、もちろん母と同じ銘柄のですよ、ヘビースモーカーの母が交通事故で死んだんだったら僕もいつか交通事故に遭うんじゃないかと思ってます。これって考え過ぎですかね? そういえばナミキさんもタバコ吸われるんですよね? ナミキさんがタバコ吸ってるっていうのも母にそっくりだと思って、実は一緒に吸いたいのもあって今日指名したんですよ。ほら僕まだ二十歳になってないので母と一緒に吸ったら怒られるだろうなぁと思って母とは一緒に吸わなかったんですよ。でもナミキさんなら大丈夫ですよね、きっと大丈夫だと思ってるんですけど、もしよかったらベランダで一緒に吸いませんか? もしタバコ持ってないようでしたら僕のやつ一本あげますよ、マルボロなんですけどいいですか?

 キャメルの煙にため息を混ぜる。セットしたタイマーはまだ鳴らない。ベランダは二人いるだけで狭い。すっかり冷えた空気がわたしの脚にくっついて離れない。寒い。
「さすがに寒いね」
「もう秋ですしね」
「寒くないの?」
「寒いですけど、今日はなんか大丈夫です」
「どういうこと?」
 ナミキさんに母のことを伝えられたからだと思います、と言って男はタバコを吸う。口から離して、泣きたい時に泣けばいいって言ってくださったのですごく救われちゃいました。
「そんなこと言ってないけど」
「同じようなもんですよ」
 灰はここに、と男は言うと、左手に空き缶を持っている。飲み口が黒く汚れてる。わたしがそれに灰を落とすと、不意に男と目が合った。
「なんかよくわからないですけど、これから朝になるじゃないですか、そしたら朝が小鳥と踊ってるような空になる気がします」
 男が視線をわたしからずらし、タバコを咥える。そのまま顔を夜空に向けると、口の端から煙が漏れる。そうだねって言えば満足する?
「そうだね」
「僕の好きな詩人が書いてて、いいなって思って」
 タバコを咥えて喋らないでほしいけど、わたしは嫌な顔をしない。
「詩も好きなんだね、すごいね」
 キャメルの煙を、時間をかけて、わたしは口に満たしていく。朝が小鳥と踊ってるような空なんて全く意味がわからない。わたしはただただ寒いだけなのに、男は一人で浸ってる。きも。

(了)

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