本当に撮りたいものがわからない
2017年4月、アコさんが日本にくるというお知らせをHPでみた私は、懲りずにセッションを申し込んだ。前回のセッションからちょうど2年が経過していた。
アコさんには、過去3回の前世療法で、フィンランド、イタリア、イギリスでの過去生を見せてもらったが、どれも私にとってはエンタメに近く、とても楽しいセッションだった。さらに言えば、セッションの後は、なぜか新たな出会いがあったり、新しいことを始めることになったりした。
2014年の2回目のセッション(牛の目に入ってみたら、そこは宇宙だった。)で、私はどうやらご老公様に「カメラ」というギフトをいただいたらしいと書いた。その後、ひょんなことから、子供たちのイベント風景を撮るボランティアカメラマンのご縁をいただいた。里山で縦横無尽に動き回る子どもたちや、浴衣で着飾った子どもたちを撮るのはとても楽しかった。子どもたちは常に動いているから、私も彼らを追いかけてカメラのシャッターを切らなければならなかったけど、納得のいく表情を撮れたときは、小さくガッツポーズが出たりもした。
さらに、2015年の3回目のセッションでは、催眠中に亡くなった祖母と会い、3年後に家族写真を撮っているという自分の未来の姿を見せてもらった。そのセッション後しばらくして、友人の親子写真を撮ってSNSにアップしたところ、「私たちも撮ってほしい」というリクエストがポツポツはいってきて、家族写真を撮り始めた。初めて会う家族がほとんどだったが、みなさん快くモデルを引き受けてくれて、いつも楽しく撮影させてもらった。撮影したデータはモデル家族にプレゼントしたが「ありがとう」と言われるたびに、私の心は暖かく不思議な気持ちになった。
ちょうどその頃、「ありがとうの神様」という本を読んだ。整体の待合室にあった本で、きれいなブルーの表紙が気になり、思わず手に取った。そしてパラパラと冒頭の部分をめくっていると、ある一文に、眼が釘付けになってしまった。
●「頼まれごとを」を断らずにやっていくと、自分の「使命」に気づく日が来る。
筆者の小林正観さんは、「働くのが好きではない」としながらも、「頼まれごとはスケジュールが許す限り断らず」その結果、「年300回以上の講演会、合宿、取材旅行・・・」をしていたそうだ。「では、嫌々ながらやっているの聞かれれば『そうではない』と答えます。」とも書かれている。
この感覚、ものすごく共感してしまった。私のカメラライフもまさにこんな感じだから。
子供たちの写真や家族の写真を撮ってほしい、というリクエストがコンスタントに来る。私はプロカメラマンではないため、お代はいただかないが、撮影に時間もかかるし、できばえも不十分かもしれない。それでもいいよと言って下さるご家族には、予定が合う限り撮影をさせてもらう。その都度、どうやったらその人らしい写真が撮れるか、どんな写真だと喜んでもらえるかを考え、実践して、仕上げる。その過程は、私の修行だ。もちろん嫌々やっているはずはない。むしろ撮った写真を喜んでもらえた時は、やってよかったなと素直に思う。しかし、うまくいかないときもあるし、がっつり疲れることもある。
これが正観さんの書いている「頼まれごと=使命」なのだろうか。私は今後もずっと、家族写真が撮りたいの?それを極めたいの?家族写真を撮るときって、遠足の前日のように眠れないぐらいのワクワクがある?
ーワクワクはある。撮影当日も楽しみではある。でもなんか、少しだけ違う気がする。
私が一番撮りたい写真は家族写真なの?
ーそれは撮りたい写真ではなるけど、撮りたい作品かといわれるとちょっと違うような気もする。
じゃあ、何が一番撮りたいの?
ー???????
そんな疑問が自分のなかにあった。何が撮りたいのか、そのためにはどうしたらいいのか、カメラの講座やワークショップに参加してみたり、プロカメラマンとお話ししてみたりもしたが、どうしてもクリアな答えが出てこない。
アコさんのセッションはそんな時期に行われた。
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