30と40のあいだに
人生が投げ込んでくるあれこれに対処していたら、あっという間に数ヶ月経ってしまった。毎日何かしら書くことに慣れていたわたしも、いま久しぶりにnoteに向かうとちょっと呆然としてしまう。
こんなときは気負いなく、ふと降りてきたことを書いてみようと思う。
(↑今年6月〜7月に滞在したハワイの空)
◇◇◇
保育園に子どもたちを送った帰り道、電動自転車を不本意にガニ股になって漕ぎながら(後付けで前乗りシステムをつけるとガニ股漕ぎにならざるを得ない)、ふと、「30と40のあいだに」という言葉が降りてきた。
30歳と40歳のあいだにあったこと。人生をかたちづくったこと。
ひとことで言えばわたしは「10年間ジタバタしていた」のだけど(もうほんとに。何かを成し遂げたとかじゃなくてひたすらジタバタしてた)、それはつまり、思考や感情、行動のトライ&エラーを繰り返しながら、自分は本当はどんな人間なのか、何をしたいのか、何をすべきなのかをひたすら探す旅だったように思う。
ものすごく不幸でもないけれど、すごく幸福とも言えなかった。
→自分という人間が分かっていなかった。外側の世界が提示する「しあわせ」をいつのまにかインストールしていて、それに合わせようとしていた。自分の内側から湧き出る「しあわせ」がわからなかった。
自分が何をすればエネルギーが満ちるのかが分かっていなかった。
→日々感じる平穏な「しあわせ」と、自分が好きで・得意で・やる価値があると思っていることを見つけて動いたときにはじめて満ちる「しあわせ」の違いが分かっていなかった。「もっとしあわせになりたい」と思って、前者のしあわせだけを増やしても、「足元のしあわせはいっぱいあるけど、どこか物足りない」となるのだった。
自分が本当に欲しいもの、心の奥底で望んでいることが分かっていなかった。
→自分では全く気づいていなかったのだけど、わたしの魂が30代で望んでいたのは「しあわせな家庭をつくること」だった。これを書いているいまも、表面的な自分は全然納得いっていないし、なんなら書くことすら恥ずかしい。しかし、いま振り返って10年間の大きな流れを見るとき、「あー、、、ねー。。。」みたいな気持ちになる。全体の流れがそこに収束していたのだ。
ちなみにこれについては、上の子を産んでしばらく経った日、皿洗いをしながら唐突に「わたしが欲しかったのってこれだ...!」という衝撃的な想いが全身を貫いて気づいた。号泣した(皿洗いしながら)。
自分がやるべきことが分かっていなかった。
→好きなことを仕事にしたいとか、ライフワークを見つけたいとか、その想い自体は悪くないのだけれど、そこに絡んでいる自分のエゴや本音を置き去りにして結論を急ぎすぎた。いまでこそ自分の例や、パーソナル・インタビューでクライアントさんの話をお聞きするなかで、ライフワークや天職はある日突然「ジャーン!」と出会うものではない(出会うひともいるのでしょうが、少数派だと思う)と体感として知っているけれど、30代では「ライフワーク」や「天職」をなんだか魔法の杖のように思っていた。それさえ見つかれば、すべてうまくいくような。
最初から答えがわかっている推理小説が面白くないように、ひとつひとつアイテムを集めながら進むからこそゲームに夢中になるように。人生もそのときにはわからない、でも振り返るとわかることを重ねながら生きていくのだろう。
41歳のいまも、日々感じて、考えて、気づいて、昨日よりまた少し身軽になって。その繰り返し。
みんなは、どんな30代を送るのだろう。送っているのだろう。送ってきたのだろう。
よかったら聴かせてくださいな。
#エッセイ #365日の気づき #30代 #40代 #ライフスタイル
Thank you for reading!