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"つらさ"まで、比較しないで

つらい、と弱音を吐いているひとに対して、おそらくは善意で、もしくは励ますつもりで「もっと大変なひとだっているんだから」といった類のことを言うひとがいる。「昔はもっと大変だった」「世界にはもっと大変なひとがいる」etc, etc... 確かにそれで奮起するタイプのひともいるんだろうが、わたしは単に「救われねーな」と思ってしまう。救われねーな、そのひとのつらさはそのひとだけのものであって、他のひとはいま関係ないのに。

◇◇◇

以前、親が認知症になって大変だ、という知人の話を聞いていた。娘である彼女を疑ったり、攻撃的なことを言うのだと。「それはつらいね」「大変だね」とただただ聞いていたわたしだったが、涙を浮かべながら話す彼女がこう言ったとき固まってしまった。

「ひとのお家のお花をとってきちゃうおばあちゃんとか、いるでしょう、認知症で。そんなだったら、よっぽどよかったのに」

固まるわたしに気づかないまま、彼女は何度も言った。「もう、そんなだったらね、よっっっぽど、いいよ。かわいいじゃない」。

よっっっぽど、つらいのだろう。そこには寄り添いたい。でもわたしは黙っていられなかった。

「うちのおばあちゃん、まさにそんな感じだったよ。それはそれで、家族は大変なんだよ。母とか、何回も謝りに行って落ち込んでたもん」

「いや〜、でもまだ、いいよ、ほんと」

それ以上はわたしも何も言わなかったけれど、モヤモヤは残った。彼女がいまつらいこともわかるし、それによって視野が狭くなっていることもわかる。でも、花好きだった祖母が勝手にひとの家の庭に咲いている花をとってきてしまう度に手土産を持って謝りに行っていた両親のことを思い出して、わたしは何だか悲しくなってしまった。

「仕方ないってわかってるんですよ〜、でも、大事に育ててたから、がっかりしちゃって」

幸いご近所ではうちの祖母のことを皆よく知ってくれていたし、ほとんどの方は気にしないでと笑ってくれたそうだ。それでも、「がっかりしちゃって」と言われて、本当にすみませんと何度も頭を下げた両親、とくにそういったやりとりで落ち込んでしまうタチの母の心情を思うと、「よっぽどいい」とは思えない。

わかっているのだ。認知症の親をみる彼女、いままさに大変な思いをしている彼女が、まるで事情を知らぬわたしの親の心情まで慮る必要なんてない。わたしが感じたモヤモヤの責任も、彼女にはない。

けれど、とわたしは思う。つらさまで比べなくたっていいのにな。ほかのひとのつらさと比べたらマシとかマシじゃない、とか、そんなの置いといて、ただつらいと感じる自分の気持ちを見つめてあげればいいのに。

よろこびだって、ひとと比べられるものじゃない。それとおんなじ。つらさだって、ひとと比べるものじゃないんだ。

#日記 #エッセイ #毎日更新 #介護





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