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小説「ユナイタマの島」ー8

「大丈夫、大海!? ねぇ開けて、お願いだから! 返事もできないくらい痛むの!?」
 息子の部屋のドアを、叫びながら叩く聡美。中からは、苦しそうな呻き声と荒い呼吸が聞こえてくる。
「だい、じょぶ……だから、ほっといて、おかあさ……っ」
 島を出ようと聡美に言われてから、大海は毎晩激しい頭痛に襲われるようになった。割れるような痛みと吐き気に耐えながらベッドで一人悶える夜が続いたが、聡美が診療所へ連れて行っても身体に異常はなく、ストレスのせいだろうとしか言われなかった。
鎮痛剤を飲んでも治まらず、その恐怖と苦しみに怯える日々。やがて、彼は痛みを感じている間、何者かの声を聞くようになった。それは人魚の歌ではなく、他の誰にも届いていないようで、初めはほとんど言葉として聞き取れなかったが、少しずつわかるようになっていった。

 ティダヌファヨ、ウタキ、イケ。ユタ、オマエ、ムカエ、クル……。

「大海、波音ちゃんが来てくれてるわよ。どうしても、あなたに会いたいって言ってるんだけど……」
 波音。不思議と、痛みが彼女の名を聞いた途端に和らいだ。よろめきながら鍵を開け、ドアの隙間から制服姿の彼女の顔を覗く。その瞳から感情を推し量ることはできなかったが、彼女が彼の手に触れると、嵐が去って凪いだ海のように痛みは完全に静まった。
 行くわよ、と唇だけで告げて、波音はジャージを着たままの大海の手を引いて外へ出た。キャンピングランタンで夜道を照らし、突き進む。何かを悟ったのか、聡美が二人を引き留めることはなかった。
 大海が連れて来られたのは、赤間御嶽だった。鳥居を潜り、聖域に足を踏み入れる。
「……聞こえたでしょう。ティダの声が」
「えっ……!?」
「あなたのそれは、間違いなくカミダーリよ」
「ハノン……なんで、喋ってるの……!?」
「ここでなら話せるのよ。神聖な力が喉に宿るからね」
 動揺する大海とは対照的に、淡々と語る波音。手を放し、振り返り、ランタンだけが光る暗闇の中で彼と向き合う。
「でも、あなたはユタにはならない。あなたは太陽神(ティダ)に愛され、選ばれた者。即ち太陽の子(ティダヌファ)」
「……何言ってるの、意味わかんないんだけど」
 ティダとは、琉球神道における最高位の神である。突然のことで理解が追いつかないが、確かに幻聴で聞こえた声の主は、彼を『ティダヌファ』と呼んでいた。
「この島では、赤間一族が先祖代々ティダを崇め奉ってきたわ。一族の女は全員ユタだったけれど、琉球王国による弾圧を避けるために女たちは他の島の家系と交わり、やがて赤間の名は消えた。その代わり、宮城と与那覇に分かれたのよ」
「宮城と与那覇……って」
「そう、あなたのお祖父さんと私の父の家系は親戚筋。私たちは島に残り続けたけれど、本島へ渡った赤間の子孫もいたの。彼らはティダ、赤き太陽を崇める島が故郷……という意味を込めて、赤郷と名乗った」
「赤郷……!?」
「そして赤間一族には、人魚と共にこの島で生きてきた歴史がある」
 目が慣れてきて、少しずつ波音の輪郭が見えてきた。無表情のままのようだったが、眉間には皺が寄せられ、大海に向けられた眼差しは険しかった。
「いい、ヒロミ。すぐには信じられないかもしれないけれど、私は今日、あなたに全てを話すわ。この島と人魚のこと、そして今までの失踪事件と殺人事件の真実を」
 ぞわり、と背筋に悪寒が走り、鳥肌が立った。ごくり、と生唾を飲む。波音は再び彼の手を取った。彼女の手は冷たい汗で湿り、微かに震えていた。

 赤間一族は琉球統一以前から島に住み、天に最も近い山の頂にグスクを築き、太陽への信仰を続けていた。そして彼らの生活に寄り添っていたのは、ニライカナイの使者・人魚(ユナイタマ)であった。人魚たちは彼らの漁船(サバニ)を安全な海へ導き、たくさんの魚を獲らせた。彼らは人魚に、神々に感謝した。人魚は彼らから作物を与えられ、その礼にと浜辺で歌い、人々はそれに合わせて踊っていた。種族の壁を越えた彼らの関係は、まさに相思相愛というべきものであった。

「ああ、そっか……」
「……何?」
「ううん、何でもない。続けて」
 あの日見た夢の光景を思い出し、大海は無意識に声を漏らしていた。

琉球統一後は、島の地域信仰がそのまま太陽神(ティダ)への信仰に移り変わり、彼らの伝統は無事守られた。しかし、赤間一族のユタは王国が遣わした者たちに迫害され始め、その力を抑えるようになった。人魚との繋がりは赤間家のユタの能力があってこそのものだったので、人々は人魚たちと関われなくなり、数百年の時を経て赤間の名が完全に消滅する頃にはすっかり忘れ去られてしまった。
 やがて琉球は滅び、帝国も崩れ去った。本土復帰を果たし、新しい時代を築いていくうちに人々は神の存在を信じなくなり、それどころか生命の源である海や森を荒し、穢し、生物たちの命を徒に奪うようになった。それでも反省しない人間たちにニライカナイの主神・東(あがり)方(かた)大(うふ)主(ぬし)は怒り、遂に天罰を与える決定を下したのだ。

「でも、人間たちの優しさが忘れられなかった人魚は東方大主に懇願したわ。どうか彼らをお許しください、って。その願いは受け入れられなかったけれど、人魚を哀れに思ったティダがある条件を出したの」
「条件……?」
「満月の夜に一人ずつ、生贄を海へ差し出せ。その行為を続ければ、島が津波に呑まれることはない」
「い、生贄!?」
「そう。つまり、これまでの事件は全て人身御供(ひとみごくう)のためだったのよ」
 自然災害を防ぐため、もしくは橋や城の完成を祈願するため神に生贄を捧げる慣わしは、古くから世界各地に存在していた。ならば、これまでの事件の被害者は全て、島をまるごと呑み込んでしまうほどの津波を引き起こさないために払われた犠牲だったということだろうか。
「それはあまりにも酷だと人魚は言ったけれど、ティダはその行為によってしか津波を防ぐことはできないと答えたわ。だから、人魚は仕方なくそのことを伝えたのよ。あなたのお祖父さんに」
「お、おじいに……!?」
「彼は与那覇の、つまり赤間の末裔で漁師だったでしょう。海で人魚と遭遇して、そのことが伝えられたとしてもおかしくはないわ」
「じゃあ、カズキさんはただの実行犯で、主犯はおじいだったってこと……!?」
「……つまりは、そういうことよ」
 脚の力が抜け、大海はその場で倒れ込んだ。
「ウソだ、そんなのウソだよ……第一、証拠なんて何もないじゃんか!! 全部ハノンの作り話だろ!?」
 目尻から大粒の涙を流しながら、罵声を浴びせる。しかし、そんな彼を見下ろす波音は、それでも冷静なままだった。
「じゃあ、会わせてあげるわ。この島の人魚に」
「何言ってんだよ、できっこないだろそんなこと!」
「忘れたの、私はユタになったのよ? 私が呼べば、彼女は来るわ。必ずね」
 強気な姿勢を崩さない波音に気圧され、何も言えなくなる。彼女は大海を立ち上がらせ、再び手を引き、御嶽の外へ出た。その足は、ビーチの方へ向かっていた。
 浜辺には誰もいなかった。新月の日は満月の日と同じく大潮、つまり最も潮の満ち引きが激しい。そのため、波打ち際まではしばらく歩かなくてはならない。空では星々が、足元では夜光虫がダイヤモンドの粒のように煌めいている。
 潮はリーフエッジまで引いていた。ようやくそこに辿り着いた時、波音が指笛を鳴らすと、沖から何かが近づいてくる気配がした。風はなく、波はほとんど立っていないのに、水音が確かに響いてくる。
 やがて、尾鰭が水面から飛び出した。それはイルカやクジラのそれとよく似ていたが、続いて現れたのは、髪の長い美しい女の体だった。しかしそれは肌ではなく鱗で覆われていて、脇には鰓のような線、腕には鰭があり、指と指の間には薄い膜がついている。
 その姿を目の当たりにした時、大海は呼吸も瞬きも忘れ、硬直した。人ならざるものを前にして、畏怖の念を抱くのは初めてのことだった。

――初めまして、ティダヌファ。お会いできて光栄です。

 強張った表情の大海に対して、柔らかな微笑みを返す人魚。少しだけ緊張が和らぎ、震える唇を恐る恐る開く。

「……君が、ユナイタマ?」

――ええ、そうです。あの時はマンタを助けてくれてありがとう。

 人魚は、口を動かさずに話し始めた。どうやら、彼の脳に直接語りかけているようだ。
「……歌ってみてくれる? あの歌を」
 大海が言うと、人魚は少し微笑んでから、口を開いて甘く切ない旋律を奏で始めた。彼女は、間違いなくあの歌声の持ち主だった。
「あの……おれのおじいに、人身御供を頼んだっていうのは、本当なの……?」
 視線を泳がせ、尋ねる。

――頼んだわけではありませんが、それが島を危機から救う条件だと伝えました。

「どうして、その歌を歌っていたの?」

――悲しくて堪らなかったからです。次々と死んでいく命を前にして、私は何もできなかった。だからせめて、歌で魂を供養したいと思ったのです。海の生き物にも、神への犠牲者にもそうしました。

「……ハノンは、どうして御嶽で同じ歌を?」
 傍らの波音に目を遣ったが、彼女は答えなかった。代わりに、人魚が返す。

――彼女も悲しんでいたのです。だから私と同じように歌っていました。そして、神様にお願いをしていました。どうか人身御供をやめさせてくださいと、満月の夜に、必ず。

「どうして、満月の夜なの?」

――命は潮が満ちた時に生まれ、引いた時に死にゆくものです。今宵のような新月の夜も潮は大きく引きますが、明るい方が生贄を見つけやすいでしょう。だから、神は満月の夜にと宣ったのです。

「……おれが、ティダヌファっていうのも本当?」

――ええ、間違いありません。私たちは、ずっとあなたがお生まれになるのを待っていました。そのためにこの島は存在し続け、人々はティダを崇め続けたのです。

「どうして、おれがティダヌファなの? おれには何か使命があるの?」

――赤間一族の最初のユタが予言したのです。この島には、いずれティダの使者が現れる。その者は赤間の血を引き、燃えるような赤と大いなる海をその名と体に宿して生まれてくる。その者は必ずや島の民を、そして世界を未曾有の危機から救うであろう……と。

「燃えるような赤と、大いなる海……」
 小さく呟き、そして彼は悟った。この予言を喜一も知っていて、だからこそ赤い髪にアクアマリンの瞳を持って生まれてきた彼に『大海』という名をつけたのではないか、と。
 すると、一喜は聡美が彼の母親だったからこの島へ連れてきたのではないか。大海が予言の子であるからこそ、喜一は彼を孫として育て、時には身を挺して彼の命を守ったのではないだろうか。そうでなければ、聡美や大海の面倒を見る義理などなかったはずだ。
「じゃあ、おれは本当は、おじいやカズキさんに愛されていなかったってこと……?」

――それはわかりませんが、二人ともあなたがティダヌファであることを知っています。そして喜一さんは、あなたに自分の愚行を止めて欲しいと願っています。このまま彼を止めなければ、今度は島の民が生贄にされてしまうかもしれません。

「そんな……!!」

――あなたは、喜一さんのことを本当のお祖父さんのように慕っています。お辛いでしょうが、彼に罪を認めさせない限り、彼は罪を重ね続けることになります。だからどうか、最後の犠牲者が事故死ではなく殺されたのだということを解き明かしてください。あなたならきっとできます。

「でも、おじいが罪を認めて人身御供をやめたら、この島は津波に呑まれてしまうんじゃないの!? おれ、そんなのイヤだよ……!!」

――ですが、島を津波から守るためにはこのまま生贄を捧げ続けるしかないのです。喜一さんの罪を黙認すれば、彼はこれからも誰かを殺し続ける。それはあなたのご友人かもしれないし、あなたの母君であるかもしれない。

「ウソだ、おじいがそんなことするわけない!!」

 涙を流しながら叫んだが、波音と同じように人魚も一切動じない。

――彼にとっては、生まれ島を守ることが最も大事なことなのです。例え、島人が全員犠牲になろうとも。現に、彼はこれまでも自殺願望者を誘き寄せて次々と生贄にしてきました。それが何よりの証拠です。

「おじいがやった証拠なんて、まだ何も見つかってないじゃんか!!」

――だからこそ、あなたが見つけるのです。あなたが証明するのです。

「無理だよ……そんなの、やりたくなんかない……」

――いいえ、あなたがするのです。それが、あなたの使命なのですから。

 項垂れ、腕で溢れる涙を抑えようとしている彼に対し、人魚は冷たく言い放った。

――何としてでも、次の満月の日までに彼の罪を暴いてください。そして生贄を出してしまうのを食い止めるのです。そうすれば次の日の正午に、西の海から必ず津波はやって来ます。それまでに民を説得し、全員を赤(アカ)城(グスク)へ避難させるのです。そうすれば、民の命は守られます。

「君はいいよね、伝えればいいだけなんだから……」
 泣き腫らした目で責めるように睨み、逆恨みの言葉を口にした途端、大海は傍らの波音に平手打ちをされた。左頬は赤く腫れ、痺れるように痛む。人魚は俯いて、悲しげな表情を見せた。

――私だって、思い出のあるこの島が津波に呑まれてしまうのは辛いです。けれど、神の怒りのせいで島の民の命が奪われてしまうのは、もっと辛い。でも、私は何もできないのです。だからこそ、あなたに託すしかないのです。

 そう話す人魚の瞳からは、淡い光を放つ雫がぽろぽろと零れ落ちていた。

「……どうして、もっと早くおれに伝えてくれなかったの? おじいじゃなくておれに言ってくれれば、おじいがあんなことする必要なかったんじゃないの?」

――何故なら、あなたがまだティダヌファとして不完全だからです。あなたは今、親族が逮捕された悲しみによって引き起こされたカミダーリに苦しんでいる。そして、自分自身の運命を受け入れ、その使命を全うすると誓わなければ、カミダーリからは抜け出せない。それが終わって初めて、あなたは完全体になる。カミダーリが始まるまでは、素質はあってもあなたはただの人間で、精々イルカの超音波のように私の歌を感知することしかできなかった。だから、お祖父さんに伝えるしかなかったのです。

「じゃあ、おじいも本当はユタだったってこと……!?」

――その通りです。ユタは主に女性がなるものですが、稀に男性が選ばれることもあります。彼のカミダーリは奥様を亡くした直後に始まったので、随分遅い方でしたが。

「じゃあ、脳腫瘍っていうのはウソで、本当はカミダーリだったんだ……!」
 ユタの名を騙ったのではなく、本当にそうだった。物の味がわからなくなってしまったのは、波音の失声症と同じく入(にゅう)巫(ふ)した証だったのだ。宮古島を訪れたのも、手術のためではなく彼女と同じ理由であろう。
しかしその事実を隠し、あろうことか波音に疑いの目を向けさせた。岩田が犠牲となった夜も、美桜を酔わせたのは大海に彼を監視させ、彼の傍から動けなくさせるためだったのではないだろうか。考え始めると、疑念が止まらなくなる。

――ああ、潮が満ちてきてしまいました。私は浅瀬にはいられませんので、そろそろお別れです。
 お伝えできることは全てお話しいたしました。ティダヌファよ、どうか、運命を受け入れ、使命を全うしてください。島のために、そして、民のために……。

 人魚は最後にまた微笑んで、それから海へ帰っていった。水面から出る尾鰭が小さくなっていき、見えなくなり、やがて水音も止んでいった。
 まだ痛む頬を擦りながら、横目で波音を見つめる。彼女も、視線に気づいて彼の瞳を射るように捉えた。それは、声の代わりに彼の意志を尋ねていた。目を逸らし、足元を見つめ、拳を握る。瞼を閉じ、覚悟を決め、大きく息を吸い込んでから宣言した。
「……わかった、やるよ。おれはおれの使命を果たす。おじいに、これ以上人を殺して欲しくないから」
「…………」
「でも、自分からおじいを警察に突き出したくはない。だから、飽くまで人身御供をやめさせるためにおれは真相を明かして、自首して欲しいって説得するよ」
 こくり、と頷く波音。
「……ねぇ、ハノン。おれって、もう神様たちと話せるのかな。できるなら、島も津波から守りたいんだ」
「…………」
 その双眸は少し戸惑っていたが、彼女は黙って赤(アカ)城(グスク)山の頂を指した。


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