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かさぶたと自死

年末が近くなると、メディアを含め自殺の話題が増えてくるように思う。毎年、この時期になると、胸が痛くなる。自己嫌悪と無力感がわっと自分を覆うような感じがして。

約10年前のことだ。あまり詳細な時期を覚えていないのだが、ある日、見知らぬ会社から封書が届いた。そこには、父親が亡くなったことと、遺された借金の返済についての記載があった。

その手紙で、わたしは初めて養父が亡くなったことを知った。

父親とは、もう十何年も顔を合わせていなかった。会わせたくもなかった。いろいろありすぎて。それを書けば、かなり話が脱線してしまうため、ここでは割愛するが。

亡くなる数日前。十数年ぶりに、突然電話がかかってきた。電話の主は、養父。

出るかどうしようか一瞬迷ったものの、なんとなしに電話を受けた。無視することが、どうにも私の性格的にできなかっただけなのだが。

なんてことない電話だった。最後に殺傷沙汰寸前の大ゲンカをしたことなんてすっかり忘れているような話しぶりで、若干腹立たしさと呆れさえ感じた。

「何のために電話をしてきたんだろう?」

理由はすぐにわかった。母に連絡を取りたかったが連絡先がわからず、唯一知っていた連絡先で私に電話をかけてきただけのことだった。このとき、二人は離婚して10年くらい経っていた。今さらという気持ちと、何の用だという母への庇護心から、わたしは適当にあしらって早々に電話を切った。養父の言葉の端々に感じていた「何かおかしい」という違和感を無視して。

それが、養父と話した最後になった。

封書が届いたのは、それからしばらく経ってからだ。

それ以来、わたしは『自殺』という言葉や気持ちに、やけに敏感になったような気がする。テレビで、雑誌で、そうした言葉を見るたびに、布団に潜り込んで世界を遮断したくなる。自分のやらかしたことに、目をふさぎたくなる。

あのとき、どうしてわたしは違和感を放置してしまったんだろうか。
あのとき、養父は、本当は助けを求めていたんじゃないだろうか。

そんな思いがずっと拭えない。

手紙が届いた後、借金のことを含め確かめたいこともあって、数十年ぶりに養父の弟家族の家を訪ねた。わたしがいまだ養女であったことにも驚いていたが、そのときに死因についても教えてもらった。督促の手紙には、ただ養父が亡くなったことしか書かれていなかったからだ。

叔父に聞いたところ、もう何年も鬱を患いながら仕事を続けていたらしく、叔父とも長年疎遠気味だったらしい。だから、叔父も叔父家族も、養父が亡くなったことを警察からの連絡で知ったという。

養父が事業を始めたのは、わたしが小学校高学年の頃だ。それまで雇われの身だったのが、独立。その後、しばらくはとても順調だった。それはもう裕福な暮らしをさせてもらった。ところが、世の中の情勢が変わり、どんどん景気が悪くなっていくのに伴い業績も悪化。年商5億くらいあったのが、どんどん右肩下がりとなっていった。

気づけば、家の中の空気は最悪。おかげで、わたしの特技に『今夜、親がケンカするかどうかわかる』というものが増えた。

そうして結局、養父が家を出る形で別居が始まり、離婚した。ざっくり言えばそんな経緯。たいして珍しくもない、よくある家庭の形。

別居の時点で、事業はすでにかなり危ない状態だった。何度も不渡りを出しそうになっていたのも知っている。離婚したときは(離婚したことさえ、わたしは後々になって知るのだが)、相当危ない状態だったはずだ。まだ20歳そこそこで名義貸しや資金援助をしたこともあった。まともに生活することも厳しくて、私の毎月の給料の半分以上は、親の生活費と借金返済で消えていた。それでも、廃業することは考えなかったようだった。

私を含め、あっちからもこっちからもお金を借りていて、借金が膨らみまくり、にっちもさっちも行かなくなって鬱になってしまったようだった。何年かは薬を飲みながら生活をしていたらしいが、あの電話のあと、何を思ったのか命を絶ってしまった。

遺書すらなかったというから、きっと衝動的だったんだろう。

叔父さんから聞いた話では、事務所兼自宅にしていたアパートで首を吊っていたらしい。見つかったのは、亡くなって数日経ってから。近隣の人が匂うと苦情を入れたことで発見に至ったそうだ。夏場で安アパートに住んでいたから、腐敗するのが早かったのかもしれない。

その話を聞いて、わたしは、言葉通りなんとも言えない気持ちになった。何も言葉が出てこなかった。どれもが自分の感情を代弁していなくて、どれもが自分の感情のままのような、わけのわからない感情が溢れていた。なのに、不思議にも頭の中はひどく冷静だった。無の中で、あのときの電話の内容が、養父の声が繰り返されていた。

それまでは、父親に恨みも憎しみも腹立たしさもあった。けれど、そんなものは生きているからこそぶつけられるもの。死んでしまえば、そんな気持ちも言葉も宙に消えていくだけで、残るのは虚しさばかり。そして、そこに付け加えられる新しい怒り。「なんで死んでしまったのか」なんて怒りではなく、自分への怒り。

そんな出来事から約10年。近頃になってわかってきたことがある。

あれからずっと、わたしは傷ついているらしいってことだ。何度も何度も「どうして」と考える。それは父に向けたものでもあるが、そのほとんどが自分に向いている。

「どうして、あんな態度を取ってしまったんだろうか」
「どうして、もっとちゃんと話を聞いてあげなかったんだろうか」
「どうして、おかしいという違和感を放っておいてしまったんだろうか」
「どうして、止めてやれなかったんだろうか」
「どうして、憎しみにとらわれて、その向こうに目を向けなかったのか」

考えても考えても、答えはない。訊ねるにも、もう答えをくれる相手はいない。すべて今さらなのだ。

わたしは、あのときからずっと「わたしが父親の背中を押した」と思っている。

「だれにも助けてもらえない」
「だれも気づいてくれない」
「だれにもすがれない」
「もう、自分には何もない」

そんな絶望感を、あの数分の電話で味わせてしまったんじゃないかと思っている。

離婚してはいたけれど、これも想像でしかないけれど、母やわたしの存在は、父にとって最後の砦のようなものだったんじゃないだろうか。

その砦が崩されてしまったから、絶望の波が津波のように父親を飲み込んだのかもしれない。

自罰感情にとらわれていると言われてしまえば、それまでかもしれない。忘れてしまってはいけない過ち。養父の決断だったと認めることで、わたしは自分のしでかしたことを許すことにもなる。果たして許していいのだろうか。その答えは、いまもまだ出ていない。

自殺の話題やニュースを見るたびに、いつも感じる。心の奥でかさぶたが、ベリッとはがれるのを。

けれど、あのとき、そういう態度を取ると決めて実行したのは自分なのだ。だから、この痛みは、わたしが抱え続けていかなくちゃならない。

この痛みがある限り、わたしが自死を選ぶことはきっとない。どれだけ死にたくなっても、苦しくて死に逃げたくなっても、わたしは這いつくばってでも生きていくだろう。わたしと同じような痛みを、大切な人たちに与えたくないし、与えられないから。

遺される者は、多かれ少なかれ傷を抱えるのだと思う。その関係性が、どのようなものであれ。

わたしも養父とは長らく疎遠で、その親子関係も養子縁組で築かれたもの。そんなわたしでさえ、傷になっている。

これが何よりもかけがえのない相手や、大切な家族なら、もっともっと深い傷を負うのではないかと想像する。たとえ自分では大切だと自覚していなくても、愛されたかった相手なら、同じように深い傷になるんじゃないだろうか。

『自らで死を選ぶ』

その人にとっては、そのとき、それが唯一の救いなんだろうとも思う。それ以外に道が見えないくらいに。冷静とは程遠い精神状態。

それを責めるつもりはない。けれど、遺される者にとっては、その意志は鋭い刃になって心の奥深くに突き刺さるということは、頭のどこかに、心の片隅に刻んでおいてほしいとも思っている。それが、より一層、助けを求めている人にとっては、苦しみになるのかもしれないけれど。

「生きていれば、どうにかなる」

それは幻想だという人もいるかもしれない。でも、死んでしまえばそれまでなのだ。いつか、生きていた痕跡が消える。

「生きていたいけど、生きていけないから死ぬ」

これほど、悲しいことはない。

残される者の心には、抜けない棘のように、いつまでもそこにある傷になる。わたしはもう、そういうのは見たくない。

相手が大切な人ならなおさらだ。何を置いても、手を差し伸べたい。
その手を取ってもらえなくても、その手があると知っていてもらえたらと思う。それだけで踏みとどまれることがあることも、わたしは知っている。

明日を生きなくていい。
今日だけ生きればいい。
それもつらければ、数時間……1時間……30分でもいい。

その身近な命の時間を繰り返す。そのうちに、光が見えてくる。

目を凝らして見てみてほしい。
絶望に呑まれて、自分で自分の光を消さないでほしい。

希望は、希望を信じる人のところにやってくる。

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