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秀才はなぜ「勉強していない」と言うのだろう? -知的探求心の育て方

学生時代、クラスや学年でいつもトップクラスを誇る人がいる。そういう人の中には、しれっとした顔で「勉強してない」とのたまう人が存在する。

必死になって授業についていっている、あるいはテストで良い点数を取るためにやりたいことを差し置いて勉強をしている人からすると、平然と「授業を聞いていればわかるだろう」と言われてしまうと、腹立たしさや怒りさえ湧いてしまうのではないだろうか。

挙句の果てに、重要な試験であっても「勉強してないよ」なんて言われて高得点を取る姿を目にすれば、別次元の存在のように思えるかもしれない。

なぜ彼らは「勉強していない」というのだろうか?

秀才にも能力の違いがある

秀才の中には、努力を表に全く出さず、実は陰で必死に勉強している人もいる。一方で、本当に努力もせずにすんなりと好成績を残す人もいる。

前者の場合は、多くの時間を割いているのに万が一好成績を残せなかったときの保険として言っているのかもしれない。後者の場合は、本人が努力を努力と思っていないだけであったり、本人にとってやっていること自体が勉強とは思っていないケースもある。

授業を聞いているとき、ただ教壇に立つ先生の話をそのまま耳から脳へ貯めこんでいくだけであれば、聞くことだけに終始してしまう。けれど、教師の話を聞き洩らさずに、なおかつその話題に対して逐一「これはどうして、こうなったんだろう?」「これはどういう理屈で成り立っているんだろうか?」と考えるのとでは、授業内容の定着率や理解度に差が出てくる。

秀才の頭の中は、ただ一方的に情報を蓄積しているのではなく、それと同時並行で情報を処理しているのだ。

秀才は知的探求心の塊

秀才が物事を広く深く知っているのは、探求心がとても強いからだ。前章の疑問を解消したいと思ったとき、教師に尋ねたり、自らで調べたりを自然と行動に移す。だから、本人が意識している・していないに関わらず、自然と物事への理解が深く広くなっていく。

これは、授業に限ったことではない。TVを観ていても、雑誌を読んでいても、映画を観ていても、何をしていても「これはなんだ?」「これはどういうことだ?」と好奇心が疼く。その好奇心は、知的探求心でもあるから、欲求を満たして自分なりの答えを見つけるまで調べ尽くす。

そんなことを日常的に行っているから、他の人が見逃してしまいがちな物事に対してもすぐに疑問が湧いたり、興味や関心を寄せたりする。

知的探求心を育てるには「なんで?」を大切にする

知的探求心というものは、もともと知能のある生物に備わっている本能的なものではないだろうか。その欲求がなければ、人間は生きてはこられなかっただろう。

そもそも人間自体が、これほど地球上に繁殖して、文明を築けるはずがない。より良い生活をしたい・安定した生活を送りたいというのは、突き詰めれば、知的生命体が生存するためには必要不可欠な欲求だろう。

話は少し飛んでしまったが、つまり知的探求心は、誰しもが本来持っている欲求ということだ。ただ、この探求心の強さは、人によって大きく異なる。とても個人差が大きいものだ。

その原因は、生命力の強さとは関係なく、後天的な環境が影響していると考えられる。

ご存じの方も多いが、私はとても探求心が強い。好奇心の塊ともいえる。幼少期は、親は朝から夜まで仕事でおらず、祖母に育てられた。その祖母も仕事をしていたので、一人っ子として過ごしていた私は常に本と画用紙とペンが一番の友達だった。

子供は、自我が芽生え始めてくると次第に身の回りや見聞きしたことに関心を示すようになる。子供がいない人でも聞いたことがあるだろう。子供の「なんで?」「どうして?」口撃だ。一つのことにこだわり、「なんで?」「どうして?」と延々と聞きまくるアレである。

実際に子供を育て、それを経験してきた人ならわかるだろうが、この口撃がひとたび始まれば、子供自身が納得するか飽きるまで終わらない。しかも、子供のタイミングで(大人からしてみれば)突然始まるので、忙しかろうが大人の都合など関係ない。

子供の「なんで?」「どうして?」は、その子の知的探求心が刺激されて起こる。だが、これを大人が忙しいからと「また後で」「知らないわよ」なんてその場をやり過ごしていると、子供の知的探求心の芽は次第に萎んでいく。育たなくなるのだ。

大人の態度から、子供は「そうか、後回しにしていいのか」「知らないままでいいのか」と自動的に学んでしまうのだ。これは、子供が瞬間的に学ぶのではない。

少しずつ状況から学んで、知的探求心を満たすことへの喜びを感じなくなっていくのだ。そして、いつしか自分の中に浮かぶ小さな疑問すら、自らで解消しようとは思わなくなる。最近の言葉でいえば、「思考停止」に陥るのである。

一度萎んだ知的探求心は育てなおせるのか?

育てなおせる。ただし、その道は簡単ではないだろう。というのも、知的探求心そのものがその人にとって「ない」ものになっているからだ。

通常、私たちが物がそこに在るのを判別できるのは、光が屈折することで物の輪郭を捉える。だが、光が屈折しない油の中に光を透過しやすいガラス製品を入れてしまうと、投入したはずのガラス製品の存在が見えなくなってしまう。これと同じように、本当はそこにあるのに、気づけない存在になってしまうのである。

では、どうやって知的探求心を感じ取れるようにするのか?

答えは、「小さな疑問を疎かにせず、解消していく」ことに尽きる。これを繰り返せば、どんな疑問に対しても、自分で考える力がつくようになる。

解消するために、何をすればいいのか? 最初は、そのやり方も方法もわからなくても、いろいろな手段で解消の糸口を見つけていくうちに、少しずつ知的探求心が刺激されるようになる。知識を得る喜びを感じ取れるようになっていくのである。

幼少期、私は親に「なんで?」「どうして?」を聞く機会はほとんどなかった。小学生になり、親と過ごす時間が増えても、私の疑問に親が応えてくれたことはない。それでも、知的探求心が育ったのは、自分なりに答えを見つけるために、多くの本を読み、教えてくれる大人や年上の友達がいたからだ。

今の時代ならば、グーグルやYouTubeなど調べるために使える媒体は多種多様にある。簡単に答えが手に入るものも多いだろう。だから、一度萎んでしまった知的探求心の芽を育てなおすことは、私が子供の頃と比べれば格段に環境が整っているともいえる。

知的好奇心を育てなおすのに必要なのは、「疑問を疑問のまま、脇に置かない」ことである。

秀才のマルチタスク能力はどうやって身につく?

人の話を聞きながら、別のことを考えられる──これを、一般的にマルチタスクというが、頭の良い人の特徴の一つとしてよく挙げられる。実際には、本当にマルチタスクをこなしている人とそうでない人に分けられる。(その根拠は長くなるので割愛するが、調査結果がネット上にあるはずなので、興味がある方は調べてみてほしい)

その理由は、一つのタスク、ここでいえば「聞く」タスクと「疑問を感じる」タスクに対して、秀才は瞬間的にスイッチングしているといったほうがわかりやすいだろう。

たとえば、電灯のスイッチ。これをオン・オフすれば、灯りが点いたり消えたりする。「疑問を感じる」タスクが電灯のオンだとすれば、「聞く」タスクは電灯のオフに当たるとイメージしてもらうと理解しやすいのではないだろうか。

疑問を感じたとき、その疑問についてずっと考えているわけではなく、疑問に感じたという記録を残しているのである。それは、ノートへのメモかもしれないし、記憶の中でマーキングをしているのかもしれない。

メモも、あとで疑問を感じた形跡がわかるように、「?」マークを書いていることもあれば、キーワードだけを書き残していることもある。常にスイッチを高速でオンオフしているので、同時並行しているように見えるのだ。

実際にマルチタスクをしている人は、常に「聞く」と「疑問を感じる」タスクがオン状態なので、まさに聞きながら考えているのである。

こうしたマルチタスク能力は、訓練を積めば獲得できる人もいるが、シングルタスクでもスイッチングスピードが上がれば、マルチタスクに近い力量を発揮できる。

だから、無理にマルチタスク能力を身につける必要はない。そうした能力は脳のポテンシャルであると同時に思考のクセでもあるから、それらを磨きなおすのは一筋縄ではいかないのである。

それならば、シングルタスクでもスイッチングスピードを上げるように訓練したほうが、獲得までの時間は早く、有意義な時間を過ごせるのではないだろうか。

秀才の一部は「勉強をしている」意識がない

受験で必死に勉強した経験がある人はとても多いだろう。また、学生時代、定期試験のたびに徹夜で勉強した人もいるだろうし、なかには日々の授業についていくべく毎日の予習・復讐を欠かさなかった人もいるだろう。

そんな人たちからしてみれば、秀才が軽く高得点を取ったり、すんなりと志望校に合格しているくせに「勉強していない」なんて、どの口がのたまうのかと思ったことだろう。

しかし、実際に秀才の一部には、傍からは勉強しているように見えるのに、本人に勉強をしている自覚が一切ないこともある。そうした秀才にとって勉強とは、学校での授業のことであり、それ以外での学びは全て知的探求心を満たすための行動でしかない。それは、遊びや趣味などのいろんなカテゴリーで語られる。

たとえば、秀才が「辞書を読むのが好き」と言えば、そこに何の魅力も感じられない平均点(もしくは、それ以下)の学生からすれば、勉強しているようにしか映らない。

けれど、秀才にとってそれは、勉強ではなく、読書の一つだったり、遊びの一環だったりする。そうした無自覚ななかで、いろいろな物事への知識を蓄えているのである。ときには、実際に実験をしたりして、疑問への答えを見つけようとすることもある。

秀才が勉学において優秀な成績を残せるのは、持って生まれたものだけでなく、自身の知的探求心を無自覚ながらに大切に育んでいるからなのだ。

社会で融通の利く秀才と融通が利かない秀才

在学中はとても勉強ができたのに、社会に出ると途端に融通が利かなくなる秀才がいる。その一方で、臨機応変に対応できる秀才もいる。この違いは何か?といえば、それまでどうやって物事を処理して生きてきたかが、顕在化しているに過ぎない。

授業で学んだことを機にひたすらに繰り返し習得してきただけの人、一方で多角的に物事を見て習得してきた人では、社会に出たときに後者の方が応用力が高くなる。

国語の授業で新しい漢字を習ったときを思い出してほしい。その漢字の書き順をひたすら練習する人と、その順序がなぜそう書くのだろうか?と考えながら練習する人では、見ている視点が違う。

さらにいえば、訓読みと音読みを覚えるときに、なぜ異なる漢字なのに同じ読みをするのかを考える人とそうでない人とでは、増える知識量も異なれば、得る知識の幅も異なる。

これを会社の業務に当てはめてみてほしい。数ある業務や作業の一つ一つに意味や意図、関連性を探し出そうとする姿と重なるのではないだろうか?

社会で融通が利く秀才とは、応用力の高い人材である。その核となっているのは、その人自身が持つ知的探求心の強さともいえる。

「諦め」こそが知的探求心の害悪になる

知的探求心は与えられるものではない。自分で育てるものだ。しかしながら、奪うのは本人だけではない。周囲の環境も、知的探求心の芽を摘む害悪になりえる。

あなたの知的探求心の芽は、いまどんな状態だろうか?
すくすくと伸びているだろうか。それとも、しおれて枯れかかっているだろうか。
周囲の環境が害悪になるといったが、100%悪者になることはない。
知的探求心にとって一番の害悪は「諦め」である。

諦めさえしなければ、知的探求心の芽を育てていけるのだから。

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