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詩のように、柔らかく

先日、福岡市南区にある「やず本や」に行ってきた。

本に囲まれたこの空間では、読書をして過ごしてもいいし、仕事をしてもいい。3時間のフリーパスを持っていた私と友人は「みっちり読書しよう」と、意気込んで足を運んだ。

やず本やさんでは、たくさんの本がジャンル別に分かれて置かれている。「社会」「旅」「アート」「エッセイ」「哲学」……直感や興味にしたがって、どんどん本に手が伸びる。気がついたら、本で両手がいっぱいになっていた。

読みきれる自信がないなと思いつつ、とった本を順番に読んでいく。「これは購入してじっくり読もう」と次の本にいったり、いつの間にか一冊に没頭してしまったり。そんな至福の時間は、あっという間に過ぎた。

退室時間が迫って我にかえり「あ、これも読まなきゃ」と、最後に手に取ったのは、若松英輔さんの『幸福論』だった。ふと目に入ったとき、装丁の美しさに心ひかれた詩集だ。

それまで読んでいた本とはうってかわり、詩集は1ページの中にある言葉の数が少なくて、余白がいっぱいある。抽象的なのに、その一つ一つがすーっと心に入ってくる感覚があった。退室時間が迫り、これは家でじっくり読みたいと思ってAmazonで注文し、自宅に置くことに決めた。

数日経って『幸福論』が家に届いた夜。寝る前の無音の部屋で、もう一度本を開いた。すると、やず本やさんで初めて読んだとき以上に、詩の世界にゆっくり入っていくような感覚になった。

私は最近、いろんな場所で自分について説明する機会がたくさんあった。今までどんな過去を歩んできたのか。今はどんなことをやっていて、何を考えているのか。今後したいことは何か、それはなぜか。言葉にした帰り道、すっきりした気持ちもあれば、発した言葉と心の中にある思いとのニュアンスの違いに気づいて、もどかしくなることもあった。

先日、佐藤友美さんの24時間で消える毎日コラムで「言葉にしたその思考は、個体になり、容易に変容しない」と書いてあって、まさにそうだと思った。私は普段、自分の気持ちや意思の曖昧さを自覚して、曖昧なまま心の中に置いているのだと思う。特にこんがらがっている最近は、思考を言葉として固体化するたびに、目の前に現れた個体のいびつさに耐えられないのかもしれない。

夜の静かな部屋で詩を読んでいくと、息苦しい心にゆっくり空気が入ってくるような安らぎを感じた。詩も言葉なのに、とても柔らかい。少ない言葉、たくさんの行間と余白。どう受け取っても許される余地がそこにはある。でも、抽象的で曖昧なのに、確実に伝わってくる何かがあるような気もするから不思議だ。

『幸福論』で一番好きな詩

「詩みたいな生き方でいいのかな」なんて、ふと思った。自分の心の中にあるものの曖昧さも、たくさんの余白や行間も、そのままでいい。言葉にして外に出すとき、何か決断するときは一生懸命、それらと向き合ってなんとか形にする。それがいびつだと思うたびに、頑張って作り直したり、見方を変えてみたり。そんなことを繰り返しながら、生きていけばいいのかもな。なんてわかったようなことを思いながら、その日は気持ちよく眠りについた。

最近は、ビジネス書や新書を手にとることが多い。でも、たくさんの言葉で、わかりやすく知識を解説してくれる本にはなくて、言葉の少ない詩だけが与えてくれる癒やしがある。しばらくは安眠のおともとして、新しい詩集を枕元に置いておこうと思う。

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