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善意や思いやり主義

正義や善意があるところには
その反対のエネルギーも
混在している。

私がまだ独身の頃

満員バスの中
たまたま
座席に座れラッキーと思っていたら

私の後に乗ってきた
小さな赤ちゃんを抱っこしている
若いお母さんが

少し前の方で椅子に座らず
立っていることに気づいた。

ここは 勇気を出して!「どうぞ」(座ってください)

と、声をかけてみた。

「ありがとうございます」
と返事が返ってくるとどこかで
期待していたら、

むすっとした表情で、
「大丈夫です。」

と返事され、
私はまた先ほど座っていた
座席に戻る。



正直その時は
そのことが 理解できなかった
みんな優しくされたいと思っているはずだし、
思いやりをもって とゆう
道徳のもと育ったから

断られることについて
納得がいかなかった。

そいやぁ思い出したけどその前にも
夜道を歩いてる 盲ろう者の女性に
何かお手伝いしましょうか?と
声をかけたら めっちゃ警戒されたことあったな そりゃいきなり声かけられたら
不審がられるわな (汗


脱線したけど、


なぜその時
その 断れた ことに
ひどく 傷つき納得いかなかったのか、


今ではわかる。


私がその人に必要だと
決めつけたり思い込んで接しても

その人にとっては
不必要な同情であったり
過干渉であったりするのかもしれないと。


バスの中のお母さんも、
座ると赤ちゃんが泣いてしまうから
立ってゆれをダイレクトに感じることを選択していたのかもしれない

盲ろう者の女性も、
いつもの帰り道で それは
私がいつもの道を歩くのとおなじ感覚で
帰っていたのかもしれない。


そこまで今なら想像できる。


問題は 困っている人に手助けすることが偽善と言いたいのではなく、


想像する力を持つこと

相手ができることを
奪ってしまう行為にならないか

思いやり 手を取り合うこと

とても大切なことではあるけれど

自分の押し付けになっていたり

それをしない人たちに対して
対立を生み出していないか

正義を振りかざして
自分の価値観を正当化しようとしていないか


数秘を通してもだけど、

それぞれの価値観や
生き方を尊重し、自立を阻害しないよう

これからも
想像する力を鍛えていきたいと思う


ではでは。

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