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自己紹介のようなもの

▫︎ 軽井沢にて


長野県軽井沢町。

言わずと知れた大人のための知的アーバンリゾート。

会社に3日間の有休を申請し、

2人の乳幼児を2歳年下の夫に任せ、

ハルニレ(春楡)に包まれた沢村のテラス席で、

私はホットラテを飲んでいた。


ある男に会うために。

10月に入ったばかりの時期だったが、朝の軽井沢は東京と違って、肌寒かった。

漫ろな気持ちを律したくなり、眼前の風景に意識を向けてみる。

色づき始めている木々の様子を眺めながら、

この地に来ている現実に少しばかり陶酔していると、

程なくして、一人の男が向こうから歩いてくるのが視界に入った。

すぐに彼だとわかった。

Nikonの一眼レフを抱えていたからだ。


「おはようございます。」

席から立ち上がり、男に会釈する。

それなりに私との距離が近づていたにも関わらず、

男は私にいっさいの意識を向けていない様子だった。

咄嗟に同じような朝の挨拶を繰り返し、

笑顔とも取れないぎこちない表情で返答した。

想像していた風貌と異なって、

若さ、儚さ、静けさのオーラを纏った男だった。

この男に、私の全てを委ねられるだろうか。

裸になれるだろうか。

「浮世離れたイメージでお願いします。」

言葉を慎重に選びなら、多くのことは語らず、男に要望を伝える。

今、身に纏うHYKEのブラックプリーツドレスも、

朱色のペディキュアを包み込むジミー チュウのゴールドフラットシューズも、

その前日、直感に従って、買った。


そして、今、目の前にいるこの男も。



ある時Instagramで見つけ、

直感でDMして、

雇った男だった。

ハートのラテアートが歪み始めている。

カップのヘリに付いた紅がふと気になり、

親指でそっと拭いた。


▫︎ 雇った男と


男は、恐ろしく無口だった。

言葉の代わりに、フラッシュとシャッター音が幾度も鳴り響いた。

湯川の鳴る音が空気に揺らぎを生み出し、

その清浄さが体の膜を通り越し、静かに沁み入ってくる。

それは私の奥底に垂れ込む不浄さを容易く呑み込み、

キラキラと音を立てる。

Nikonから放たれる光は、その男の瞳の奥から放たれているのだろうか。

どこかへ置き忘れていた心地よい不器用な感覚が蘇る。

そして、それは、自意識を超えて、

悦の感覚をもたらす。

冷たい水に朱色の指先を濡らしながら、

(私は、どこかに辿り着けるのだろうか。)

朧げな思考を巡らすと、

幼児の手のような小さなもみじの葉と共に、

それは清らかなさざれ水に流されていった。

西陽が刺すホテルの一室。

木材とグレーの配色に統一された空間には、私以外、誰もいない。

手にしたブラックドレスとフラットシューズを丁寧に包装からその姿を露わにさせると、

それらは “本当“に、

“私のため“だけに、

“そこに存在している“ のだと思えた。


「明日はあたしたちと一体なにするの?」

柔らかな包装紙から解放された彼女たちが、興味津々に聞いてくる。

「男に会うのよ。」

ぼそっと答えると、

「ふぅん。その男となにをするの?」

興味があるようにも、ないようにもとれる素ぶりで、

彼女たちは更に質問を重ねてくる。

「カメラで映してもらうの。」

「なんのために?」

「私以外の眼で、今の私がどう映るか見てみたいのよ。」

それ以外の目的なんてなかった。

ただ、それは、軽井沢でなければならなかった。

なぜなら、軽井沢は亡き父の生まれ故郷だからだ。

「今のあなたがどう見えるか、ですって?!」

フラットシューズが金ピカの身体をくねらせ、素っ頓狂に言った。

「あたしを着たら誰でもステキに見えるんだから、とっとと着ちゃえばいいのよ!」

ブラックドレスがロングプリーツをひらひらとしながら、

己の袖を通すべく誘うように続いた。

(そうね、待つ理由なんてないわよね...)

木枠の窓の向こう側は、まだ明るかった。

だが、私は川上庵に行きたかった。


▫︎ 清流のそばで


せきれい橋 川上庵。

旧軽井沢の本店にはない川床を彷彿とする立地が魅力の蕎麦処だ。

開店間もない店内を遠慮気味に足を踏み入れると、

気さくな女性スタッフが笑顔で私を出迎えた。

艶やかな漆黒のテーブルに着席すると、

地酒と肴の一覧を案内され、まずは地ビールをオーダーする。

そして、瑞々しいグラスに注がれた琥珀色を目にした途端、

先ほどまでの遠慮する気持ちは幻のように消え果て、心がうらうらと緩み出す。

店内の大きな窓枠から見える生い茂る木々は、

まるで一つの壮大なアートのようだ。

その存在感は、重厚な木材を基調とした空間の中で、

木のぬくもりと自然の恵みへの感謝の気持ちを自然に湧き立たせる。

程なくして運ばれてきたのは、鴨煮込み蕎麦。

器がテーブルの上で静かにことっと音を立てて、

さぁどうぞと言わんばかりに、幸福な湯気をもやもやと立てている。

照り輝く鴨肉にさっと炙られたネギの香ばしい香りが鼻腔に滑り込むと、

出汁の持つ潜在力に対して、強烈な興味が掻き立てられた。

蕎麦は程よくコシを残しつつ、温かく味わい深い出汁と絡み合いながら、

弾力の鴨肉と共に口の中で解け散る。

ビールの後にオーダーした地酒の優しい甘さが、

身体の芯をより温かくしてくれている。

蕎麦も日本酒も全て平らげると、私はすっかり愉快な気分になっていた。

(テラス席に移動して、滔々と流れる川の音を浴びたい…)

そう思った私は、すぐに席の移動について承諾を取り付けると、

湯川を一番近く望む席に着席した。

外はうっすらとグレージュのような明るさに包まれ、

木々を背景にオイルランプの橙色がゆらゆらと揺れていた。

間も無く到来する夜の気配を強く感じる。

ざぁざぁと淀みなく流れる水の音(ね)を聴きながら、

どうしようもなく頭の中でこんがらがった思考が、

この流れと共に解けて欲しいと願った。

昨夜のうそうそ時。

あの席から眺めていた川で写真撮影されていることに、

些かの違和感と少しばかりの達成感に包まれながら、

流されていったもみじの葉が小さくなっていく姿を眺めていた。

「ケラ池に移動して、そこでも撮影していただけますか。」

いざ行かんとばかりに振り返ると、

若い男はひっそりと目元を下げ、はい、と答えた。


▫︎ 直感とつながる


男の足が止まった。

すると、陽を眩しそうに目を細めて、遠くを見つめながら、

「あの黒い壁。いい感じですね。」

と呟いた。

同じ方向に視線をやると、

木漏れ日が黒い木目の壁に美しい揺らぎと陰影をもたらしている。

だだ、その時は、その場所で撮る時でない気がした。

「あとで寄りましょうか。」

と言って、何かに急かされるように、ケラ池へと足を向かわせた。

緑深いケラ池での撮影を終える頃には、

初めの頃の緊張感からずいぶんと解放されていることは明らかだった。

そして、あの黒い壁のことが気になっていた。

今だと思った。

後回しにする理由というのは、

あるべくしてあるものなのかもしれない。

そう感じた瞬間だった。

そこで撮られたものが、

まさかこれからの私の次の人生をあらわすものになるなんて。

ブラックドレスは部屋の夜の闇に溶けそうだった。

数時間前、カメラマンの男と共に酒を酌み交わした私は、

虚ろな気持ちで、40年もの年月を生きてきた軌跡を思い返していた。

「答えは自分の中にある。」

あの男に伝えた言葉。

まるで他の誰かが言ったことのように見聞し、繰り返し私の中で反芻し続ける。

かつて愛した男たちが、若くしてこの世を去った。

彼らの生きた軌跡に、私が混ざり込んでいた理由をずっと探し続けていた。


“ 作家 ”


まさに直感だった。

これ以上隠せないと悟った。

本当は、ずいぶんと前から、気付いてもらいたかったのだ。

恐怖を抱き、震える心を抱きしめるように、多くの涙が頬をつたった。

鼻先に熱が帯びる。両肩が諤々と震える。

ほとばしる血が身体全体を駆け巡り、生命のみなぎりを覚えると、

“作家の私”の姿が、強烈な悦の光に包まれた。


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