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与えなくても、あなたは愛される

私は最近、他者へ与えることを控えている。


相手のためと思って行動したけれど、良い反応が返って来ないことが続いたから。


私はそのとき、こう思いもした。


「折角〇〇してあげたのに。(相手が)楽になればと思って、〇〇したのに。」


「あげたのに」というなんとも恩着せがましいフレーズが頭に浮かんだ時点でアウトだった。


そこには、自分が無理した痕跡がくっきりと滲み出ていた。


「疲れていたのに」とか、「本当は自分のことだけやっていたかったのに」といった本音が押し込められた後がくっきりと。


そこには期待も包まれていた。喜んでほしい、感謝の言葉が聞きたいといった期待が。


これまた、見返りを求めている時点でアウトだった。


「やりたいからやる。結果喜んでくれたなら嬉しいけれど、喜んでくれなくても、そんなものかと思う。」


これくらい軽やかなスタンスでいないと歪みが生じる。


自分が満たされていて初めて、本当の意味で、相手に与えることが可能になる。


だから今、ツーアウトを食らった私は自ら降板して、自分を満たすことを優先しているのだった。


私はどちらかというと、起こる出来事には意味があると思うタイプで、今回の件では「拒否されるということは、私が与える必要はないということだ(=与えることを求められていない)」と感じた。


私は相手に恩を感じていて、少しでも喜んでくれるであろう方法で与えることを通して、恩返しがしたいと思っていたのだけれど、


「与えることが恩返しとは限らない」


そんなメッセージが込められているようにも感じた。


もっというと、


「何かしたいと思うのなら、自分のために行動しなさい」


そんな風に言われているように感じたのだった。


相手の愛情をたっぷり受け取ってきたからこそ、恩返しがしたいと思ったのに、愛はどこまで深みを持つことができるのか。


与えたのだから、返してくれるのよね?などといった期待は、はなからされていなかった。


それは冒頭の私とは対照的に「(あなたのために)してあげている」という自己犠牲的な考えの下に行われた行為ではなかったからだろう。


ペイフォワードという言葉があるけれど、ある人に与えてもらったからといって、同じ人に返さなければならないという法則は、本当に存在しないのだと思った。


数年前に人生が白紙に戻ったような気分を味わった頃から、私は自分軸へのシフトを試みている。


そんな私に人生は色んな角度から、色んな人を送り込んできて、自分軸で生きるよう訴えかけてくる。


誰かの期待に応えるために頑張ることは、本当にもうおしまいなんだな。


自分の期待に応えてあげることが成功の秘訣で、逆をいってもどうやら上手くいかないらしい。


我が道を行けと言われている私だから、自分が選択しない限り、私がサポートしないと立ち行かない状況というのは、当面現れないのではないかな。


だから、周りを心配しすぎず、私のためにある目の前の道を進んで行ったらいいんだよな。


幸い、私が介入しなくとも、物事は万事うまく回っている。


自分の心の声を聞いて、自分を幸せへと導いてあげる。


周りの幸せを願うからこそ、まずは自分を幸せにしてあげる。


私の幸せな姿を見たら、誰よりも喜んでくれるはずだから。


だから、これが私の新しい正解だと思うことを、私は私に許可してあげようと思う。




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