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時代の価値観

私は1960年台後半の高度経済成長期に、兵庫県の赤穂市に生まれました。父は
大手繊維メーカーの会社員でした。母は結婚前は幼稚園の先生をしていて、子どもが大好きで、料理が得意な専業主婦でした。三歳年上の兄と四人家族で、兵庫県と奈良県で育ちました。

父は十一歳のときに空襲で父親を亡くし、経済的に苦労して育ちました。子供の頃の夢は、白いごはんをお腹いっぱい食べることだったといいます。

こういう生い立ちは、当時はめずらしいことではありませんでした。もののない戦後に、子供時代を過ごしたのですから、経済的な安定がなにより大切だと考えるのは自然です。日本の高度経済成長を支えた人達の多くが、この価値観を共有していたと思います。

家族にご飯を食べさせるため、安心して住める家を買うため、子供に教育を受けさせるために、滅私奉公で働いてくれた世代があって、今の豊かな日本があります。

経済的安定を優先させるなら、雇用が安定している大企業や公務員になるのが一番です。そのためには偏差値の高い学校に行くのが一番です。こういうわけで、私も「よい学校」に行き、大きな企業で働くことが、「よい人生」なんだという価値観を、知らず知らずのうちに内面化して育ちました。

チューリップ畑と人魚姫

父は海外と縁の深い人でした。

私が4歳のとき、父は出張でヨーロッパに行きました。そのとき撮った写真をスライドに焼き、襖をスクリーンにして、スライドショーを見せてくれました。オランダの風車とチューリップ畑、デンマークの人魚姫の像など、おとぎ話の世界がそこにはありました。幼い私は、ワクワクしながら、いつか絶対に自分もそこに行こうと思いました。

私が中学生のとき、父はブラジルに3年間単身赴任しました。そこで父が体験したのは、ラテンカルチャーの価値観でした。仕事のために生きる人生とは真逆の、「楽しむために生きる人生」です。個人よりも会社、という、典型的な日本の価値観を体現して働いてきた父の中で、”Live to work” から ”Work to live” へのパラダイムシフトが起きたんだと、その時のことを何度も嬉しそうに語ってくれました。

私が成人してから、両親はインドネシアのバンドンに6年間駐在しました。私は毎年バリ島で両親と会い、いっしょに休暇をすごしました。父も母も、海外での生活をおおいに楽しんでいました。まさか、自分が将来バリ島に住むことになるとになるとは、当時は考えもしていませんでした。

父はよく、海外に住むことのおもしろさを話してくれました。日本の堅苦しいタテ社会よりも、自由で個人主義的な海外が性に合っていたようです。海外に住むと、まるで別の人の人生を生きているような気がする とも言っていました。

私は海外に住んで19年になります。実は自分でも意外な展開だと感じています。子供の頃から海外に住みたいという夢を持っていたわけではなかったのです。今、改めて振り返ってみると、海外に住むことのおもしろさ、楽しさを教えてくれた父の影響が大きかったのだと思います。

人に関する仕事

子供の頃の私は、学校の成績がよくて、親や先生の言うことに逆らわない、いわゆる優等生タイプでした。学級委員で、しっかり者で、人前では絶対に泣かず、人との感情的な対立を避ける子どもでした。

小中高は地元の公立校に通いました。小学校の頃は、音楽の先生に憧れていました。中学のころは歴史が好きで、なぜか考古学者になりたいと思いました。高校の進路指導では「人に関する仕事」と書いたことを覚えています。

受験戦争をくぐりぬけ、晴れて大学生になったのが1986年。世はバブルの真っ盛りでした。大阪での一人暮らしが始まりました。

大学では社会学を専攻しました。それに加えて、中学と高校の社会科の教職課程も履修して、教員免許もとりました。大学四年生の夏、同級生が就職活動にいそしむのを横目に、母校の高校で3週間の世界史の教育実習を経験し、おおいに楽しみました。

家庭教師のアルバイトでは、どの生徒も成績がメキメキ上がり、お母さんたちから喜ばれました。生徒と姉妹のように仲良くなり、勉強以外のことにも、相談にのることもよくありました。 

部活は、男子ばかりの軟式野球サークルのマネージャーをしてました。別に野球が大好きだったわけでもないのに、よく4年間続けたものだと思います。自分自身がプレイヤーになるのではなく、チーム全体として力が発揮できるようにサポートすることが好きだったのだと思います。

この頃から、人に教えること、チームをマネージすることが好きだったようです。


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