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現実だと思っているものは幻であるということに目覚めるには

この世界はロールプレイングゲームのようなもので、本当の自分はモニターの外にいてゲームをして遊んでいる。あるいはスクリーンに映し出された映画が私たちが現実だと思っているもので、本当の自分は外側でそれを見ている、そんな風に自我と真我や、現実創造という文脈でよく表現されます。

私もいろいろな人がその人の言葉でこのことについて解説するのを聞くうち、そういう仕組みなんだなとイメージはできるようになりました。仕組みは頭で理解したという感じ。

でもそういう実感があるかというとそこはまったく。ということは真には理解していないし、なんならそういう今まで触れてきた言葉をうのみにしてあたかもそれが普遍的事実であるように自分の観方を上書きしただけかもしれない。

ひょっとすると自分が理解したと思っているこの観方も、自我がわたしに見せている罠なのではないか。

とはいえこの仕組みを、なるほどそういうことか、と納得したときの感覚は理性や知性を超えていて、体感に近いものだったので、これまた論理的に説明はできませんがこの観方はホンモノ、知性を超えた実在だということがわかります。少なくとも私の世界では。

命題を与えられると、答え探しをしにいきたくなります。たぶん脳ってそういう習性があるのでしょう。

「この世界はロールプレイングゲームのようなもので、本当の自分はモニターの外にいてゲームをして遊んでいる。」

こういわれると、この言葉通りの感覚を探しに行きます。RPGのようなイメージ、アバターの自分、プレイヤーの自分。ゲームのステージ。。。

でも、アバターの自分とプレイヤーの自分が同時に2人いるって段階で、それを体感するのは私にはどうしても感覚としてとらえることができません。

理屈はわかる。でも、たとえば今朝食べたハムエッグがどんなおいしさ、どんな香り、どんな食感だったかのように五感の理解がわきません。

そりゃそうでしょう。同時に2人の自分になったことがないのだから。

幽体離脱のような夢を見たことがあります。このときも身体の私の意識はなく、抜けた方の意識で夢を見ていました。

だから。現実と非現実、自我と真我、こうしたことについて語られる言葉の映画やRPG だというイメージを追っても、たどりつくのはせいぜい頭での理解だけ。しかも、頭の理解すら自分の経験の範囲内でイメージできるものに制限されるので、実はまったく未知の領域についてはその理解はほんのほんのほーーんの一部の切り取りでしかないでしょう。

なので、アバターとプレイヤーや、映画の中と外、その両方の自分が同時に存在するといったイメージでそれを実感しようとするのは、たぶん無理なのです。

だからといってその言葉をつかって説明している人たちが嘘つきだということではないです。この人たちは先に実感があったのだと思います。それを限られた三次元のイメージと言語で語ろうとするとその表現になってしまう。そういうことなんだと思うのです。

だから、実感があって表現ではなく、言語化された表現から実感という逆のルートをたどろうとする私のような場合、そのイメージの実写版を求めても実感とはつながらないのは当然ちゃあ当然です。

りんごを一度も見たことのない南国の人に、りんごは赤くて丸くて中が白くて、いい匂いで歯ごたえバリっとしていて。。。といくら説明したとしても、それを聞いた人がイメージできるものはおそらく南国のフルーツを土台にしているので、リンゴとは全然違うものである可能性が高い。そんな感じです。

自分の翼で空を飛んだらどんな感じか、これを人間の私たちの誰も、正確に実感をともなって理解できないのと同じです。

現実はRPGみたいなもの、映画のスクリーンみたいなもの、このイメージで実感できない人は、そのイメージのような体感を追求して覚醒しようとしても無理だと思うのです。

他人の表現を頼りに探しに行っても、未知のことすぎてその表現からイメージできるものはあまりに限界がありすぎ、実際とは違いすぎるから。

むしろ実感→言語化の順番で語られるものとはぜんっぜん違う、小さなほころびのような感覚、それに気づくことが実感へつながる道なのではないかなと思います。(ただしこれも私の感覚、言語化なので、これもまたあなたにとって真実ではないかもしれません。)

映画「マトリックス」の黒猫についてのデジャヴがマトリックスの世界のバグを示すシーンがあります。主人公ネオが以前とまったく同じように黒猫が横切る一瞬、さっきも見た、と感じます。現実世界でもよくありそうなできごとです。私たちの世界で起きても、「ん?」と一瞬思っても、似た猫がまた通ったのかな、で片づけてしまいそうなささいなこと。

でも、それが世界のバグという重大なことなしるしだとしたら?

この話も、黒猫やデジャブやバグというものにとらわれてしまうと、そのイメージを追ってしまいます。

それよりはネオが「ん?」と一瞬感じたかすかな違和感、そっちの方がヒントになると思います。そういうものを見逃さない。ここでも気をつけないといけないのは、私たち一人ひとり、どんな違和感をどんな風に感じるかは違いまくりなので、他人の「どんな違和感をどんな風に感じるか」は参考になりません。

とはいえ、一例として私が最近よく感じる違和感というか、ゲームの中の現実のほころびとしてとらえるのをご紹介しますね。空間がズレる感じです。

ほんとに一瞬、床のものをとるためにかがもうとした瞬間、乗っている電車が駅に入る瞬間など、とにかく予期せぬふとしたときに、自分の身体の皮膚のこちら側と皮膚の外、手を伸ばした先のあちら側の空間が、ルパン三世の五右衛門が斜め切りしたものが切られたところを境に上下にずれるような、そんな感覚です。

ぜんぜんRPGとは無関係。でもそのずれたところに、次元の境目のような、空間のほころびのようなそんなものを感じ、いまいるこの三次元は仮想現実のようなもの、と感じます。

このずれを認知したお陰で、体験するためにこの仮想現実に生まれてきたのだから、あらゆることを本体に返そうと思えるようになりました。手放すということです。

猛暑の大汗も、ほらこの身体はこんなに汗をかいて暑さを感じてますよ、生きてる証拠ですねとか。コーヒーのいい香りを鼻が味わい、リラックスと豊かさが胸に広がっていますよ、とか。アバターの役割を果たすというか、本体への愛というか。

嫌なことや苦しいこと難しいことばかりを他力(というか本体)本願するだけでなく、素敵なこと、感動、幸せすべてを本体に返す、捧げる。

それをしても本体側の感覚はまだ同時に感じることはできません。感じる必要もないのだと思います。

ただただすべて返す。すべて捧げる。

本体がこれはもう感じつくした、もうお腹いっぱい、もうクリアした、となれば次のステージに進むだろうから。

これをずっとしていると、とても心穏やかでいられるのです。自分で人生をコントロールする必要はない。だからできるように期待されてないし、そのように作れてもいない。

未知だらけの人生を正確に予測し、完璧な選択をして、失敗せずにクリアする、なんてのはこのゲームのアバターの役割ではない。

こんなことが起きた。それにたいしこのわたしという存在はこんな風に反応しますよ。こんな感情をもちますよ。こんな選択をしてこんな行動を取りますよ、あるいは取りませんよ。

これでよいのです。これだけで。

これがもっとも楽に、もっとも自分らしく、幸せになる方法。イージーモードってやつです。これは私の実感からの言語化です。



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