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私たちのダイヤモンドを研ぐために

なにか困難が起きてそれによって今のままの状態を継続できなくなったとき、いらない荷物を置いていかなくてはなりません。

そのためにその出来事が起きているからです。

困難は私たちを変化成長させるために設定されています。というか、私たちからすると変化成長するととらえるし、困難・試練と感じるのだけれど、魂的には自分という存在の純度を上げるのに最も効率のよい設定でしかないのでしょう。

変化成長する、器が広がる、そういうと、今の状況はそのままにもっともっと持てるようになるような気がします。今あるものを持ち続けたまま、付け足していく。それが成長であり、拡大じゃないかって。

でもそれでは変化成長できない時があるのだと思います。ダイヤモンドの周りに他のたくさんの違う石や飾りがごてごてくっついていることで、ダイヤモンドそのものの光が損なわれているとしたら?

もっともっとダイヤモンド本来の美しさを際立たせるには、不要な装飾は落とした方がいいです。それなのに、ごてごてした上にもっと他のものを足したらどうなるでしょう?

ますますダイヤモンドの光りは奥へ奥へと隠れます。

もし、自分というダイヤモンドの純粋な光を磨きたいなら、外側にくっつけているものをダイヤとは本質的に遠いものからそぎ落とさないといけません。

それを喪失と感じるのは、その余計な装飾や持ち物が「私の」ものだと思っているから。

私のだけれど、私のではない。万物は神のもの。神=私だから私のもの。だから、そぎ落としても喪失するわけではない。自分が来たのと同じ源に帰るだけ。返すとダイヤモンドは力を取り戻しむしろ満たされた感覚が増す。

困難や試練では、自分のダイヤモンドはなんなのか、この先も持っていきたいものはなんなのかを問われる。

自分のわがまま、贅沢と思っていたものが、実はなにをおいても持っていきたいもので、これを捨てたら自分ではなくなると思っていたものが案外いらないものだったりする。

身軽になって、自分にふさわしいもの、自分と本質が一致するものと入れ替える。自分純度をたかめていく。その研ぎ石の役割を困難や試練がはたしているのだと思います。

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