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どこからが友達?

今朝、NHKの番組で大人になってからの友達作り、ということをとりあげていた。その中で多くの人が悩むのが「どこからが友達?」という線引きだそう。

どれだけその人たちは他人軸なんだ?

自分が友達って思ったら友達でいいんじゃないの?

「友達」の定義って、人によってかなりバラつきがあると思う。お茶したら友達?一緒に帰るから友達?ごはんたべたら友達?飲みにいったら?

友達となにをしたいのか、なにを求めているのか、それを満たしてくれる人が友達なんじゃないかな。

空いた時間でお茶でもしながら楽しくおしゃべりしたいなら、それをする人は友達。

誰にも言えないようなことを相談したいなら、それをできる相手が友達。

後者が友達だと思っている人は前者の関係は知り合いでしかないかもしれない。あるいは友達候補、潜在的友達。

定義は人によって違うから、自分は友達という言葉をはめても相手は違うかもしれない。知り合いかもしれないし、親友と思っているかもしれない。

だから「わたしたち友達だよね?」とか「友達だと思っていたのに!」というセリフをドラマなどで聞くとはあ?って思う。

友達だよね?って確認して、相手の答えに自分の感覚をすっかりゆだねてしまっているじゃないか。言われた相手も「私が決めるの?」って思うんじゃない?私ならそう思う。

私にとって友達はこう、と自分軸で決めず、相手に責任を押しつけている。

あと「友達だと思っていたのに!」っていうのも、そうなの?ってならないのかな。あなたの友達の定義は知りません、と言われた側は思うと思う。それでもたいてい、言われた側があやまるんだけど、それは友達なのにご期待に沿えなくてごめん、ていうより、あなたが友達ってそういうものだと考えていたなんて知らなくてごめん、のごめんなんじゃないかな。

いやいや、知らないでしょ、そんなの。アドラー的にはそれはあなたの課題です、ってところ。

自分が友達だと思えば、友達ならすると思うことを自分が相手にするだけ。してもらうことばかり求めるのでなく。だって相手も同じことをしてくれるとは限らない。定義も違えば、友達かどうかの線引きも違うから。

まちがっていようと正しかろうととにかく味方になってくれる人を友達というか、まちがっていると思ったら相手のためにそれを指摘する人を友達というか、どちらも相手を大切におもっているのは同じでも、行動は反対になる。

だから、自分は友達だからどうありたいか、それだけを決めればいい。相手がどう考え、行動するかは相手が決めること。

友達だと思ったのに!
友達だからだよ!

こう言えればいいんじゃないかな。

友達は、なにかをしてくれる人じゃない。なにかをしてもらうために友達を得ようとするからおかしなことが起こる。友達というのはなにかをしてもらうのが当然な間柄ではなく、こちらがなにかをするのが当然と思える間柄だと私は思う。

友達づくりということ自体、わたしは違和感があってる。縁がある人とは自然と出会って仲良くなるとこれまでの人生を通して確信している。話してみたいなと直感で思ったら、話しかければいい。相手の反応はこちらにはコントロールできない。話しかけたいと思った自分に誠実に行動するだけ。



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