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アライグマに教わった真理 ”人生はシャボン玉”

なにかを観たり聞いたり読んだりしたときに、一瞬、人生の真理、この世界を作る原理原則にふれたような感覚になることがあります。

ああ、これが真理か、これが私たち人間が人生で悩みもがき狂喜乱舞するからくりなのか、みたいなことです。

それは稲妻のように一瞬で、感覚でしかないので、急いで言語化したいのですが、一瞬ごとに感覚がうすれ再びもやのむこうへ逃れていってしまいます。

昨日もそんなことがありました。

動物のちょっとした仕草というのはおもしろかわいくて、ついインスタグラムなんかで流れてくると止まって見入ってしまい、電車の中でもにやっと笑ってしまったり。

昨日みかけたのは、アライグマが上から降ってくるシャボン玉を夢中になって両手でつかもうとしてはシャボン玉がはじける、という映像でした。

どの子たちも2本足で立ち上がり、シャボン玉キャッチゲームに夢中になっています。

動物というのは、人間の作ったものや人間の道理が分からないから、こちらからみると意味のないことに真剣に向き合っていて、その姿がかわいらしかったり笑えたりします。

アライグマたちのシャボン玉キャッチも、餌でもないただ消えてしまう泡にこんなに夢中になるなんて、というのがはじめはおかしくかわいらしかったのですが。

ふと、ああ、神様から見たら私たち人間の生きざまもこんな風におかしく愛おしいものなんだろうな、と思ったのです。

道理がわかるから、自分には普通でおもしろみのないことも、それがわからない存在が必死で夢中でする姿は私たちにとってのアライグマと同じ。

シャボン玉がふってくることで狂喜乱舞し、キャッチできずつぶしてしまうことに悩み、たとえばもうシャボン玉が来なくなったら、そのことに喪失感を感じ。

本来、アライグマの生態にシャボン玉で遊ぶというものはありません。生きていく上で、アライグマがアライグマとして生きていく上でなんの意味もない行為。でも夢中になっています。

私たち人が、人生のドラマにはまって楽しむならまだしも、もがき苦しみ自己否定し、死にたいとすら思ってしまうことは、人の真の姿ではないということ、やめようと思えばやめていいこと、そのことがこのアライグマをみていて妙に納得できたのです。

シャボン玉つかめない苦しさ、シャボン玉が来なくなる喪失感、それって必要?それのために人生のほとんどの時間やエネルギーを費やすほど?

好きでやっている。遊んでいる。自我のドラマにはまることをよくそう表現されます。

ほんとにそうだ。

そのことに納得して、SNSに流れてく他の人たちの生活を切り取った投稿を見ると、ぜんぶアライグマのシャボン玉遊びに見えてしまって。ポジティブな投稿も、ネガティブな投稿も、自慢も、宣伝も、ビジネスもすべて。

そうしたらちょっと不安というか怖いというか、そう感じたのです。これを悟り切ったらヤバい、みたいな。この世を平気で渡っていけなくなるというか、今までと今もっているすべてを捨てそうというか。

衣食住はもちろん、人間関係とか、使命とか、夢とか、仕事とか、すべてはシャボン玉。やめようと思えばやめていいし、結局泡だから自分の生きることの本質になんの関係もない。

悟り切ったら、世捨て人か仙人になってしまうかするんじゃないかっていう怖さ。

たぶんこれはまだ、本質の自分への信頼がないからなのでしょう。悟ってもシャボン玉で遊んでもいいのに。

この記事を読んでしまったあなたも、人生はシャボン玉である、ということを悟ろうとしているのかもしれませんね。

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