見出し画像

救えない悲しみはコントロールできない怒りにかわる

月一で開催している想いを言語化するオンラインイベント、さきほど12月の回が終了。今回は自然とテーマが怒りになった。

怒りは思うようにならないことで生まれる。思うようにならないとなぜ怒るかというと、こうしてほしい、こうなりたいという気持ちをわかってもらえないから。わかってもらえない悲しみの根が深ければ深いほど、怒りになって発現しやすい。

誰かが「よくない」状況にあるから、それを救いたい。するとその状況を作りだしている別の誰かに対し怒りがわいたり。そしてその怒りの対象の誰かの行動や考え方を変えたいと思う。でもそれはコントロール。自分の思うとおりの状況を作り出したい、自分の感情を癒したいという望みからきている。

自分以外の人が傷ついているのを観たくない、救いたいというのは、その人の痛みに自分を重ねているから。そしてその人を傷つける相手には、自分を傷つける相手を重ねている。

自分が傷つく痛みは自分ごとで解消するしかない。他人はそこでそれを感じる必要があるかもしれない。その人はその体験を通してなにかを学んでいるのかもしれない。

放っておけないのなら、それは自分ごとだということを分かったうえで手をだす。救う相手のためでもなく、傷つけている人のためでもなく、自分のための行動だとわかっていなければ、その人をたとえ救えたとしても、そういう人はまた現れまた自分の心が揺れる。

自分が癒されない限り、自分を救わない限り、自分の周りの救われるべき人はいなくならない。

手を差し伸べても、相手が手をとるかどうかはコントロールできないのだ。相手をコントロールできないことで思い悩むのは無駄であり、無駄なことでエネルギーを消耗して自分の人生を止めてしまうことはもっと無駄だ。

手を差し伸べたい、という自分の欲求を満たした、と自覚する。そしてその結果にこだわらない。救ってあげる、という他人のための犠牲と勘違いしないことだ。やりたいのは自分。そこから目をそらさない。

そして、なぜ自分はコントロールしたいと思うのか、なぜ黙っていられないのか。掘り下げるべきはそっち、つまり自分の問題だ。自分の怒り、その奥の悲しみに気づき、癒していく。

それが自我のドラマにはまらず、怒りにとらわれず、自分を満たしていく方法。これを割り切ってできると、すごく楽だ。

そんなことをするのは冷たいんじゃないか、無責任なんじゃないか。そう思って他人の問題の周りで自分をすり減らしている人がなんと多いことか。冷たいと感じるのも自分、無責任だとレッテルを貼っているのも自分だ。

同じことを、おせっかいとか暑苦しいとか思う人だっているかもしれない。

手を出したい、他人の問題を救おうとするのも、それは自分の欲だと気づけば、自分のためにやると納得でき、結果に執着しなくなる。

怒りは本来の自分として生きる道の上で大きなギフトだ。あなたの道が平安に満たされますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?