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表現は瞑想であり、瞑想は排泄である

書くという行為は私にとってある種の瞑想だ。文章瞑想、表現瞑想。

瞑想中は無になるというよりは、次から次へと浮かんでくる思考をざーっと流していく状態だと私はとらえていて。

思考をなくすというよりは、いちいちひっかからないで流れていくのを眺め、感じることが瞑想の目的。そうすることで、思考の顔をした自我に巻き込まれていない心の状態を一日に少しでも作ることができる。さらにそれを文章化することで、客観的な事象としておとしこめる。

ほぼ毎日書いていたnote投稿を約一週間お休みした。

書くつもりだったのだけれど、結果書けなかった。

東京へ出張していたためなのだけれど、それでも時間が全くなかったかというとそういうわけでもない。時間はあったけれど、書けるほどの瞑想状態になれなかった。

自分の内部に深く入り込むのに、場所というのは私の場合、影響を受けやすいのかもしれない。

場所といっても、環境とは違う。静かかどうかや自然があるかなどはあまり関係ない。

なぜなら、普段は家でもかけるし、電車の中でもかける。騒がしいカフェでもかける。静かなラウンジでもかける。家も電車も一続きの世界で、思考も感覚もフラットに続いている。

それがどこに境界があるのかわかっていないけれど、東京にいく途中にその境界があったのか、出会う人たちとかかわっていたのか、滞在先の状態だったのか、いつもの書く状態にならなかった。

それはそれで悪いわけではなく、それも体験だ。違うということを知ることができた。

いつもはどうかというと、書いてくれ!と私の意識を内側からどんどんたたいてくる。それを拾い上げて言語化する。その"どんどん"がこの一週間はなかった。あるいは、わたしがそのノックに気づける状態ではなかったのかも。

文章を書けないとか、文章じゃなくても表現できないとか、なにを発信したらいいのかわからない、という人は、なにか表現瞑想の状態に入ることのできる場所に自分を置いていないのかもしれない。

心は必ずなにかを伝えてきている。聞こえる場所、状態に自分をもっていけばキャッチできる。ただしそれは一般的によく言われる集中状態である必要はないかもしれない。

また集中状態であったとしても、そこに入りやすい環境が他の人とは違う可能性は多いにある。

お風呂の湯舟が好きな人にはそこはリラックスの場所だけれど、お風呂に入るのが面倒な人、嫌いな人には、早くすませてしまいたい場所でしかないように。人によってちがう。なにが自分にとっての「聞ける」状態かはその人にしかわからない。

ただし、共通していることもある。

表現は心地よい。排泄みたいな快感がある。ある意味瞑想も排泄みたいなものだ。自分の中をクリアにするものだから、一緒っちゃあ一緒。

だから心地よくない表現はたぶんあなたのスタイルじゃない。

6日ぶりの投稿、あ~すっきりした(笑)

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