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書けなくなったライターは、ライティング・ゼミで魔法を取り戻せるのか?

「魔法が……弱くなってる」
私は呆然として呟いた。

物心ついたときから、私の夢はたったひとつ、文章を書く人になることだった。
大学を卒業して新聞記者になり、結婚を機に退職してフリーライターになった。やがて、編集の仕事もするようになった。

書くことは、ただただ楽しかった。
「なぜ書くのか」なんて考えたこともなかった。
けれど、今。
「文章の書き方」を忘れたライターの私は、空飛ぶ魔法を忘れた魔女のキキみたいに、折れたホウキを抱えて呆然と立ち尽くしている。

一体、どうしてこんなことになったんだろう?

一生けんめい文章を書いて、発注してくれた人や読んだ人に喜んでもらえると、本当に嬉しかった。もっともっとがんばって、いい文章を書こうと思った。

でも、あるときふと思ってしまったのだ。

「いい文章」って、何だろう?と。

誰かが読んで、感動の涙を流す文章?
新しい情報がたくさん詰まった文章?
クライアントの新商品を魅力的に紹介して、たくさん買ってもらえる文章?

一度考え始めると、止まらなかった。

何のために書くのか。
文章を書くことの目的を、私は完全に見失っていた。

実際には、物理的に書くことができなくなったわけではない。
長い間、書くことを生業にしてきたので、仕事として、お客さんが求める条件を満たす文章を「作る」ための技術は身体に染みついている。

でも、文章を書くときにいつも感じていたワクワクする気持ち、書いている間いくらでも湧いてきて尽きることがなかった「楽しさ」が、みるみるすり減っていくのを感じた。
このままでは、近い将来完全に魔法が失われ、本当に一行も書くことができなくなってしまう。

「転職した方がいいのかもしれない」と思い詰め、現実逃避のために何となく見ていたFacebookに、「人生を変えるライティング・ゼミ」という広告が流れてきた。ライター仲間から「ねえ、本当に面白いから、時間があるとき一度受けてみて」と勧められたことがある講座だ。そのときは、まさか自分が書けなくなる日が来るなんて思いもよらなかったから「へえ、そうなんだ」と聞き流していた。

――人生を変える? ライティングで?

そんなことできるわけない、と思った。
だって、私は物心ついてからずっと書き続けてきたのだ。
書くことで人生が変わるなら、なぜ今、私は書きあぐねて転職サイトを巡回しているのか?
ブラウザの「×」マークを押して、私はページを閉じた。

けれど夜、布団に入って目をつぶると、「人生を変える」という言葉がよみがえってきた。文章の書き方を教えてもらったくらいで、人生が変わるとは思えない。でも、魔法を取り戻すヒントのかけらくらいは、見つけられるかもしれない。
一度は閉じたページをもう一度開き、あらためて告知文を頭から丁寧に読んだ。
最後まで読み終えたとき、私の中で、長い間忘れていた「ワクワク」が動き出すのを感じた。

「書いてみたい」と久しぶりに思った。

誰かのためでも、原稿料のためでも、自分のプライドを満たすためでもなく。
まっさらな、おろしたてのノートみたいに何も書かれていない私に戻って、その場所で自分が何を感じるのか、何を書くのか、もう一度見てみたい。

ライティング・ゼミの申し込みボタンを、私はクリックした。

その夜から、4ヶ月。
8回の講義を受け、10回以上の課題を毎週提出してきた。

講義は、とても不思議なものだった。
文章を書くための技術を教える講座は世に溢れているが、そういったいわゆる「文章教室」みたいなものとは、一線を画しているように思えた。
もちろん、ユニークで実践的な技術も惜しみなく教えてくれるのだが、それ以上に、書くための情熱の「種」を手渡されているように、私には感じられた。その種を自分の中に蒔くと、芽が出て枝が伸び、葉が広がって、やがて大きな木に育っていく。

木を育てるための「水やり」のような役割を果たすのが、毎週の課題提出だ。
初めのころは、これまで身につけてきた仕事の「型」や、妙なプライドが邪魔をして、何を書けばいいのか、課題のテーマ選びに迷うことも多かった。
仕事で書くときには、多くの場合、既にテーマが決まっているか、特定の取材対象がいる。自分で企画を考える場合も、メディアの方向性という「枠」がある。できるだけ自分を消して、対象の人や物にフォーカスしていけばいいので、慣れればそう難しくない。
でも、ライティング・ゼミの課題テーマは「自由」。何を書いてもいいということが、初めは逆に窮屈だった。

8回目の課題を書いているとき、「あ、感覚が変わった」と思った。
「このテーマで書こうかな」と思いついてから、文章になるまでのタイムラグが短くなり、アウトプットするまでに心の中で超えなければならない障壁が、確実に低くなっていた。小説のようにドラマティックな出来事が起こらなくても、目の前にあるもの――「テーブル」とか「コーヒー」とか「パソコン」とか、どんなテーマでも文章は書けるのだとあらためて思った。

そして気づいたら、書くことを純粋に、心から楽しんでいる自分がいた。

次は何を書こう。これもネタになるかもしれない。講義で教わったあの技術を使って、こんなふうに書いたら面白いかな――
書き上げた文章に対する執着が消えて、書いている時間そのものが快楽になっていた。

そこまでたどり着いて、私はようやく気がついた。

書くことは、魔法なんかじゃない。
それはもともと私にとって、ごはんを食べるとか、家族や友達と話すのと同じ、日常の延長線上にある、ごく当たり前の行為だった。

私が書けなくなったのは「魔法が弱くなったから」じゃない。
書くことへの思い入れが強すぎて、自分に「仕事として引き受けているのだから、100%相手の期待に応えなければならない。そのためには特別な魔法が必要」という自己暗示をかけていただけだった。

今、感じている情熱や、目の前にある素敵な景色。
あなたにも見せたい、伝えたいという想いのほかに、文章を書く理由なんてたぶん必要ないのだ。
世界中の誰が読んでも、100%完璧な文章など存在しない。
たったひとり、必要としてくれる誰かに届くと信じてベストを尽くすのが、書き手としてできる最大限の誠意だろう。
不思議なもので、一度足枷が外れると、あんなに悩んでいたことが嘘のように、日々の仕事にも楽しみながら向き合えるようになった。

最後の講義が終わった日、ふと思い立って、ライティング・ゼミの告知文をもう一度読み直してみた。

人生が変わる、ライティング・ゼミ。

――嘘でしょ。
パソコンの前で、私は思わずにやりと笑った。

――本当に、人生変わっちゃったじゃない。

空飛ぶ魔法がなくても、私は私の速さで、景色を楽しみながら歩いていけばいい。
そうやって夢中で書き続けて、ふと気づいたらおばあさんになっていた。みたいな人生が最高だな、と今は思っている。

読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。