たとえば1杯の、お茶を差し出すように。
息継ぎみたいだな、と思うことがある。
週末の、お茶の稽古。
ふだん、仕事に没頭し家族と向き合い、合間に大急ぎで最低限の家事をしていると、あっという間に1週間が過ぎていく。
特に、コロナ禍で家にいる時間が長くなってから、水族館のマグロみたいにぐるぐると、同じところを回り続けているような気がすることもある。
そんなときお茶の稽古に行くと、明るい水面に顔を出して、深く息を吸い込んだときみたいに、清々しい空気が自分の中に入ってくる。
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たとえば今朝、茶室に足を踏み入れたら、待っていたのは「抱清棚(ほうせいだな)」という茶道具だった。
「清」は水という意味で、だから抱清棚は「水を抱く棚」ということになる。
言われてみれば、確かに抱清棚は、水を入れる陶器を両側からふわりと抱きとめるような、やさしい流線型をしている。
床の間に目をうつすと、「春水満四澤(しゅんすいしたくにみつ)」という禅語の掛け軸が飾られている。
中国の詩人、陶淵明の詩の一節で、雪どけ水が、あちこちの沢に満ちあふれる春の風景をうたっている。
この時点で耳の奥では、抱清棚から流れ出す春のあたたかい水音が流れ始める。
掛け軸の前には、桃の花。
お茶を飲む前にいただくお菓子は、桜の塩漬けを載せた桜餅。
抹茶茶碗には、お雛様の絵が描かれている。
お茶を飲み終えるころにはすっかり、桃や桜が咲き乱れる春の野で、雛祭りを祝っているような華やかな気持ちになっているという趣向。
そのすべては先生が、茶室を訪れる生徒たちの顔を思い浮かべながら、ひとつひとつ心を込めて準備しておいた魔法なのだ。
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稽古に来ると必ず、刻一刻と変化する季節の移ろいの中に「今」があることを、新たに「発見」する。
去年と同じことを繰り返しているようでも、それは決して同じではない。
毎回、かならず新鮮な光がある。
息継ぎみたいにその光を呑み込んで茶室を出ると、日常に戻ってからも、また深く潜って冒険することができる。
季節を感じることは、人の心や体にとって、新鮮な野菜を食べるのと同じくらい切実で、重要なことなんじゃないかと思う。
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こんな状況の中、さまざまな工夫をしながら教室を開け続けることは、もちろん簡単ではない。
「お休みしないのですか?」と先生にたずねたら、
「だって、こんなときにお茶も飲めなくなったらみんなつらいでしょう?」と笑っておっしゃった。
この場所で1杯のお茶をいただけることに、この1年あまりどれくらい救われてきただろう。
私にとってそれは茶室だったけれど、世界中でたくさんの人が、心ある方たちが静かに整えた癒しの時間や空間に癒されて、大変な時代を乗り切っているのだろうと思う。
先生の名人芸にはほど遠いけれど、1杯のあたたかいお茶を飲むような安らぎを誰かに感じてもらえるように、私も心を澄ませて文章を書いていこう。
読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。