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他者目線って大事だなと思った件

先日、こんなことがありました。

生協さん(最近担当者が変わった)の配達日。在宅していたのだけれど、ちょっと手が離せないことがあり、インターホン越しに「すみません、外に置いておいてもらえますか?」とお願いをした。宅配の生協を利用している人はお分かりと思うけれど、生協さんは不在時には玄関先に注文したものをケースに入れて置いていってくれる。共働きや不規則な出入りが多い人にとってはとてもありがたい。我が家もかれこれ10年以上利用していて、子どもたちは生協さんの食材でここまで大きくなったと言ってもいいくらい。

それでインターホン越しに生協の担当者の人も「はい、わかりました!」って言ってくれた。「ありがとうございます!」と伝えた。

しばらくして手が空いたので、さっき届いた食材を家の中にしまおうと思って、玄関ドアを外側に向かって(普通玄関ドアはその方向よね)押し開けようとしたら、「ドン!」と何かにぶつかって開かないのよね、ドアが。

もしや…と思って隙間から外をみたら、はい、生協さんが置いていった荷物が玄関ドアの目の前にどーーん。「え?そこに置く??えーーー?!?!」…やれやれ。仕方ないので、じりじりを力づくで玄関ドアを押し開けて、外に出て、無事届いた荷物は家の中に入れた。

しかしもやもやは残る。どうしてここに置いたんだろう。中にいる人が外に出てくるとは思わないのかな。インターホン越しに会話したよね、私たち…。感情的になってもしょうがないので、問題点を整理。

・配達担当の人は「指示された通り」玄関外に荷物を置いた。(任務完了と思っているはず)

・私は受け取りに外に出た際に、ドアが開かない事態に遭遇した。(え、なんでそこに置いたの?中からドアを開けるって気がつかないの??と正直一瞬イラっとした。)

なぜ私はイラっとしたのか

1.どうして中から人が出てくることを想定できなかったのか、インターホン越しに会話したのに。ちょっとは相手の状況を想像できないのか。

2.(ドアを中からあけることなんか想像できなかったんだろうから、しょうがないけど)ドアが開いたとき、開かないだけじゃなくて、ぶつかった衝撃でドアが破損したかもしれない。そういうことまで想定できないのか。

(ちょっと高度かもしれない番外編としてもう一つ理由を書くと、玄関ドアの目の前にドーンと荷物が置いてあると「この家にはいま誰もいませんよ。」と宣伝しているようなモノ。防犯上、それってどうよ。ちょっと考えたらわかりそうに思うけど…)

要するに配慮のなさにイラっとしたのだ。配達担当者は「自分の仕事」はやり遂げた。けれど「利用者の利便性はまったく考えられない」のだ。実はこの担当者に代わってから、ちょいちょい「配慮のなさ」にがっかりすることがあったので、私としては「でた、またか。」という気持ちもあった。

サービス改善(改善というかあたりまえのことをやってもらうためには)、電話をして意見(クレーム)を伝えることもできるのだが、たぶん電話をすると、その担当者が誰なのかを会社としては知りたいはずで、そうするとこちらの氏名、住所なども伝えなければならないはずで、だいぶ躊躇する。(担当者が逆上してあらぬことを考えたら…とか考えてしまう、心配性なもんで。)

日本は、サービス業に関してはどちらかというと過剰なことが多くて、言ってみればバカ丁寧なことも多くて、それによって余計な時間を取られたりするので、私はどちらかというとさっぱりしたサービスを受けることが好きだ。けれど、それと「配慮」ではワケが違う。過剰なサービスを求めるのではなくて、人としてあって当たり前の配慮がなかったことに私はイラっとしたんだな。

こういう事態に遭遇したとき、相手にカッカしても仕方ないことがあるので、「さて、自分は仕事でも日常生活でもあたりまえの配慮ができているか」「うちの子どもたちは、あたりまえの配慮ができる人間に育っているか」ということに切り替えて考えるようにしている。

今回もわざわざ電話でクレームを言うのは躊躇してしまうし、私の時間を奪われるのはイヤなので、考え方を自分事に置き換えて乗り越えようと思う。

さりげなく、あたりまえに、自然に配慮ができる人になりたいし、そういう人を私は育てたい。他者に想いを寄せる人でありたい、そういう人を育てたい。

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