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私とBUMPと劇団と

BUMP OF CHICKENについて、いつか書こうと思っていた。今でしょ!という気がしたので書くことにする。

きっかけは昨晩ラジオでBUMP OF CHICKENの曲を他のアーティストがカバーをするという特集をやっていたことだった。SONAR MUSICという東京の番組だが、あっこゴリラさんが好きで時々聴いているラジオ番組。4日間に渡り、嵐・スピッツ・宇多田ヒカルと続き昨日がBUMPのトリビュート特集だった。

あと、もうひとつ。NHK朝ドラの「おかえり、モネ」がもう終盤に差し掛かっている。このドラマの主題歌がBUMPだ。音楽全般は高木正勝さん。このお方も私の人生に欠かせないのだけどそれはまた今度。

前置きが長くなったが、私がBUMPを知ったのは「天体観測」だ。車で運転することが日常だった私は車内でFM802を聴いており、ヘビーローテーションで流れていたのが「天体観測」だった。当時は新しい音楽に疎く、ラジオで2、3度偶然聴いた頃だったろうか。いいなあと思ってCDショップで「天体観測」と「LAMP」を買ったのだ。

私は学生生活を終える前に京都の劇団に入団し、卒業後は劇団の活動を基本として様々なバイト・契約社員・派遣社員をして生活していた。

入団した時は私は一番若く、先輩方は5〜10歳年上の方ばかりで、会社のサークルみたいな、落ち着いた雰囲気だった。ミーティングでは演劇論を交わすこともなく、署名活動とか政治的な内容の会話ばかりだった。劇団というよりも学生運動の大人版みたいだなーと思っていた。今までどんな役をやって来たとかよりも、私が高野悦子さんの「二十歳の原点」が好きで、等持院(京都市北区)に引っ越したと言うことを色々興味を持ってくれた人もいた。

正社員で仕事してる人もいて、一見穏やかな社会人劇団だったが稽古場では厳しかった。私が高校演劇で受賞したり演劇専攻の大学の授業で褒められたことなど通用するどころか寧ろ不要な癖となり、自然に歩くところから稽古した。代表であり演出のSさんには七色の声を出すなと怒鳴られ、悔悔しいやら腹立つやら自分が情けないやら、もう四面楚歌、五里霧中、八方塞がりの日々だった。

今、スパルタ稽古は時代の流れに沿わないので、このような稽古風景があるのかどうかもわからないが、この頃はどこどこの演出家は灰皿を投げるとか普通に聞いていた。毎日のように怒られて泣いて、そのうち泣く事も出来ずに心で泣いて、私はダメな奴なんだとしか思えず、でも時々嬉しい日もあったりするから尚更稽古に行くのが怖い。悪循環だった。(この頃のことは辛かったけど、Sさんに愛情を沢山貰った事はわかっているので感謝している)

そしてまもなくSさんが岸田戯曲賞、OMS戯曲賞、シアターコクーン戯曲賞なと続けて受賞され、地味な活動に反し、我が劇団は演劇界に注目されていく。
(余談だが、受賞式のパーティーで黒テントの佐藤信さんと二人っきりになって話した時は、ほんま何言っていいのか、私は水のない魚のようだった。佐藤さんはキセルタバコで「京都から車で来たの」みたいな普通の会話の一言一言にも渋みと重みがあった。)

その注目の流れから劇団員が少しずつ辞めていった。理由は色々あったと思う。後でわかった事だけど、旗揚げメンバーの劇団員の方が「みほちゃん(私)は上手くならない。辞めさせた方がいいで」的な事を言って、Sさんが「そんなことはない」と言った末に揉めて、結果その古株の方が退団した経緯があると知った。

そして少しずつ人は入れ替わり、私と同世代のメンバーが主になり、その背景では京都の演劇の担い手の方々が手を取り合うようになり、京都舞台芸術協会というものが発足された。関西、もしかしたら全国的にも我が劇団は認知されつつあった。

そしてとうとう劇団の公演は関西の登竜門、扇町ミュージアムスクエアで行われる事になる。文化庁から助成金を支援いただき、フライヤーはカラーで両面になり、新聞の記事になる。

そんな状況に反して、私は劇団では劣等感の塊だった。私の親友と思っている一年後に入団してきたT子はとても魅力があったし、他のメンバーも私よりずっと上手くて華があった。

そのメンバーで書かれた台本はいつも私がキーパーソンでありイロモノで所謂、美味しい役だった。しかし内情はそういう位置に置くことで下手くそを映えさせる、象徴的な役割だった。
そしてその初めての扇町ミュージアムスクエアで上演した役(写真)が、2000年第二回関西現代演劇俳優賞の奨励賞を受賞する。有難い話だ。けれどそんな内情があるものだから私の劣等感は猶も健在。嬉しいけど複雑。

相次ぎ、次の年の2001年第三回では女優賞を受賞。
その時などは一人芝居も含めての受賞だったのだから「私頑張ったもん」と思えればいいのだけど「周りの方々のおかげです…」としか言えない。
もちろん私なりの成長はあると信じているのだが、同時に自分の力の無さは自分がよくわかっている。
その間に親愛なるT子は私が愕然とするような戯曲を次々と書き、その後退団し、自らの劇団を作った。その前後に主要な役者であるメンバーが3人退団した。3人が結託したわけではない。其々に事情や思いがあっての結果だ。T子とはその過程の一部始終、沢山の時間を一緒に過ごした。
T子はT子で私に劣等感を抱いていたというのも本人から聞いていたし、いつも悩みながらもお互い正直に真摯に向き合ってきたと思う。他のメンバーも然り。私が続けられたのはSさんとT子を始め、本当に周りの方々のおかげ、と思っている。

そんな時だった。BUMPを聴いたのは。
初めて「LAMP」のカップリング「バトルクライ」の冒頭。

自分にひとつウソをついた「まだ頑張れる」ってウソをついた
ところがウソは本当になった「まだ頑張れる」って唄ってた
ずっとそうやって ここまで来た

〜中略〜

それが僕のわずかな力 ただの強がりもウソさえも
願いを込めれば誇れるだろう 望めば勇気にもなるだろう
ここが僕のいるべき戦場 覚悟の価値を決める場所
ひとつのウソにさえすがる僕のそのウソが誓いに変わる


……
てんてんてん。私の劣等感や強がりも誇りになる日が来るのだろうか。

初めて行ったBUMPのライブ、2001年9月14日。ちょうど20年前。まだオールスタンディングだった。近くの女の子が泡吹いて担架で運ばれた。

その後、劇団は何度も人が入れ替わった。私は劇団内ではSさんの次に古株となる。劇団以外の客演や、外部の作品に関わることも出てきた2003年、BUMPが「ロストマン」をリリースする。


状況はどうだい 僕は僕に尋ねる
旅の始まりを 今も思い出せるかい

選んできた道のりの正しさを祈った

いろんな種類の 足音 耳にしたよ
沢山のソレが 重なってまた離れて

淋しさなら 忘れるさ 繰り返す事だろう
どんなふうに夜を過ごしても
昇る日は 同じ

〜中略〜

これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける 
不器用な旅路の果てに 正しさを祈りながら


これを聴いた時、なんだろう、あの時の感じをどう言葉にすればいいのか難しいのだけど、ずっと探していた人にやっと会えた感じ。私のマイノリティを受け入れてくれたみたいな。

この曲が私を肯定してくれた気がしたのだ。肯定、というのは「君はすごいよ」「君は正しい」ではなく、「君の気持ちわかるよ」「君は大丈夫」という肯定だ。


物凄い数の人達がBUMPに支えられてきたと思うし、私よりもよく知っている人は沢山いると思う。私はCDは購入するけどライブは結婚・育児の間は全く行けなくて、2016年に久しぶりに京セラドームに参戦し、それが最後だ。金銭・時間の余裕があるわけではないので、他を優先させて次に行けるかどうかもわからない。

ただ、私はこんな時にBUMPに助けられた、というのを残しておきたくて書いた。20年も前の事だけど昨日のように蘇る。ずっと忘れない。

上記の2曲以外では「K」「ホリデイ」「友達の唄」「ファイター」「リボン」が好きです。(絞れなかった)