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意図の不明な修正について考える

文章において、どこまでが自分のこだわりで、どこまでがゆずってもいいポイントなのか、判断基準が難しい。

文章をよく書き、よく読むようになってから、「いい文章」がちょっとずつわかるようになった。嫉妬するくらいきれいな表現とか、読み手を引き込むリズムとか、読みやすい文章には必ず、「どうして読みやすいか」の意図が隠されている。

もちろん「いい文章」だけが読まれるわけではないので、ふだん見る文章にすべて意図があるとは言い切れない。けれど、せめて自分が(仕事として)世に出す文章は、その時の自分の「いい文章」でありたいなと思っている。

ただ、それは自分のエゴであって、もしかしたら捨ててもいいようなプライドなのかもしれないなと、急にわからなくなった。

たとえば執筆に携わる仕事を生業にしていない方が私の手がけた文章をチェックして、「ここはそう直すと稚拙に見えるな」と思う修正を要求してきたとき。私にとっては“稚拙”で直すべきところでも、その人に取っては私の文章よりいいと思っていることになる。それはつまり、対象読者にも入る文章初心者の人は、“稚拙な文章”のほうが違和感なく読めるのかな、と思った。

“稚拙な文章”とはたとえば、語尾がずっと同じだったり、同じ表現を何度も繰り返したりすると、あまり文章を書いてこなかった人や、語彙力の少ない人のような書き方になる。けれどそう思うのは文章を勉強した人だけであって、勉強していない人は何も思わないのかもしれない。そうなると、個人的に違和感があったとしても、要望されたとおりに修正した方が、マス向けにはいいのだろうか。

仕事をするからには同業の人が見ても違和感のない(願わくば憧れられるような)アウトプットを出したいし、それによって次に出てくる仕事の質も変わると思っている。けれど受託の仕事においては、自分にとって違和感があっても、相手の要望をそのまま受け入れる必要があるのだろうか。

意図のわからない修正を「はいそうですか」と機械的にこなせない、頑固な私の重い悩み。

去年の毎日note


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