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「役に立つ」ために生きてるわけじゃない

noteのフォロワーさんが増えてきたころからだろうか、読んでくれる人に対して、「こんなことを伝えたら、みんなが喜んでくれるかもしれない」と考えるようになった。


それまでは、自分との戦いだった。いや、今も半分そうなのだけど、今までは半分以上が「自分のため」で、noteを書くのは自分の気持ちの整理だったり、励まされたり助けられたりした言葉を残しておくためのものだった。読み返した“私“が勇気づけられるものをひたすら書いていたのだ。


実際、去年のnoteや誰かがスキを押してくれたnoteを見返した時に、当時書いた言葉に助けられたりすることがある。自分の思考回路を軌道修正するため、自分のための言葉をずっとしたためてきた。


気持ちが変わってきたのは去年の終わりごろ。フォローしてくれる人がどんな興味をもって私のnoteに来てくれて、何を期待して読んでくれているのかをなんとなく予想づけられるようになってからだ。それ以降、励まされた言葉を見た時に、「これはnoteに書いたら誰かを元気づけられるんじゃないか」とか、「生きづらさを感じている人の、何かしらのサポートになれるんじゃないか」とか、そんな気持ちが浮かぶようになった。

最初から「誰かのため」を頑張ろうと思っても、すぐに反応がなかったり、実感が持てなかったりすると、見えない“誰か“を想像して頑張り続けるのは難しい。まずは自分のために、自分を助ける言葉を発したり、調べたり、書いてみる。すると、自分に近い誰かの反応が見えてくる。小さな反応が徐々に膨らむ。そこでようやく、自分ができることが見えてくるだろう。誰かを喜ばせることに、つながってくるのだと思う。

人間は役に立つから生きているのではない。生きていれば役に立つこともあるにすぎない。(南直哉『語る禅僧』)

生きるベースは「役に立つこと」ではない。けれど生きていれば「役に立つ」ことがあるかもしれない。

あまり頑張りすぎず、「自分が生きやすい生き方とは」を模索して生きるだけで、十分なのかもしれないな。


去年の毎日note


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