見出し画像

釈迦って実はHSP?出家ストーリーから考えた釈迦の気質

仏教の考え方は、私が感じていることを言い当ててくれたかのようなものが多い。特に南直哉和尚が解釈する釈迦の教えが自分にはぴったり当てはまっていて、「生きづらい」と感じる時を肯定してもらえているような気がする。

『仏教は、人生はつらく、苦しく、悲しいもの、せつないものだと断じています。たとえそうでも、すべてを抱えて死ぬまで生きる。その勇気こそが尊いのです。「いろいろあるけど、生きててよかったな」と思える一生を送る。』ーー南直哉著「禅僧が教える 心がラクになる生き方」より

もはや共感しない人なんていないのでは? と思ってしまうほどすっかり仏教漬けの私。いつものように電車で直哉和尚の本を読んでいたら、こころに引っかかる文章があった。

『釈迦牟尼が、城の東西南北にある四つの門から散策に出る。すると、東から出た日には老人に、南から出た日には病人に、西から出た日には死者に会い、この世に生まれることの「苦」を目の当たりにして悩む。そして最後に、北の門から出遊した日、路上に修行者の姿を見て、ついに出家の決意を固めた』ーー南直哉著「語る禅僧」より

出会った人の状況をすべて自分のことのように感じ、全身全霊で悩む釈迦。「この世は辛いことばかり」と人生の生きづらさを嘆き、それでも必死に生きていく姿を見て、「もしかして釈迦って、HSPだったのでは……?」と疑問が生じた。

さらに言うなら、生きづらさを感じても旅に出たり、修行を繰り返したりしているあたり、私と同じHSS型HSPのような気がしてならない。

HSP、すなわち「Highly Sensitive Person」は他者との境界線が薄く、他人の気持ちが自分に反映されてしまう、感受性の高い人のこと。人の気持ちに敏感に反応してしまうからこそ、生きづらさを感じたり、疲れやすくなってしまったりする。

東西南北の門からでて、老人、病人、死者にあってその影響を過度に受けた釈迦は、感受性が最強に高いと言える。それによって人生にネガティブさを考えるあたりが、まさにHSPの特性と合致しているのではないかと思うのだ。

生きづらさの末出家を選び、修行をし、悟りを開く。それだけに留まらず、自分の体験してきたことを弟子や国の人々に伝えてまわった点ではかなり外交的。HSS型かどうかを声高々に言うには少し説得力に欠けるかもしれないが、その後の世界に与えるインパクトや数多くの弟子たちを抱えている様子を見ると、HSPのみよりもHSS型が混ざっているとしたほうが説得力が増すような気がする。

生きづらさの中、それでも生きていく方法を模索し、悟りの境地に達したのが釈迦。彼がHSPだと考えると、HSPの境地には「悟り」が待っていてもおかしくない。HSPでも、世界に大きなインパクトを残せるのではないか。周りの影響を受けやすく自己肯定感が低くなりがちなHSP気質も、実は大きな可能性を秘めていると考えた。

生きることは辛いこと。けれどそれでも、「生き抜くことはどういうことか」と生涯かけて問い続けられるのは、HSP気質だからこそできることかもしれない。

「釈迦と同じ気質なら……」と勇気さえ出てきた。生涯かけて考える問いを、私も常に持っていたい。


去年の毎日note


最後までありがとうございます!いただいたサポートは、元気がない時のご褒美代にします。