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理解できない人と向き合うメリット

海外によく出ていた頃は、これまでの考え方では理解できないようなことが起こり、「そもそも自分はどういう考えで過ごしてきたのか」を再認識することがあった。

各国で違うジェスチャー、「神様」の言葉に込められた意味、「めんどくさい」「どっちでもいい」を始めとした、英語に置き換えられない日本語の細かなニュアンス。自分の「当たり前」が違っていたとき、気持ちが大きく揺らぎ、決して自分が「正しい」わけでは無いことを知った。

とは言っても大きなことではない。「日本は八百万の神だけど、特に欧米は唯一絶対神。"神"の認識が違うんだ」だったり、「YesかNoで大体答えてしまう海外の人すごい。"どっちでもいい"が言えないと何も伝えられない」だったり、なんだか当たり前のような内容を、ひとつひとつ指差し確認していくように確かめてきた。

今、ことばのやりとりをする度に、大きな壁にぶつかってしまう相手がいる。相手の発信する言葉にどうしても共感が持てず、一言ひとこと悩んでしまうのだ。

相手は何を伝えたくて、どうしてこのタイミングでこの言葉を選んだのだろう。

理解できないメッセージをもらうたびに、それらの言葉にひたすら向き合う。誰かに発するすべての言葉には、相手に対する「伝えたいこと」が潜んでいるはずだ。明確にわからなくても、相手が気づいていなくても、この言葉を選んだことで伝えたい何かがあるはずだ。

そんなふうに悶々と悩んでいたら、「これって今の仕事と同じことだよな」と思った。誰かに伝えるために、私たちは記事を書く。それを書くことで相手に何を伝えたいか。それはどんな言葉なら伝わりやすいか。日常でも起こることを、仕事としても行っているのが私の仕事なのかもしれない。

相手の発する言葉にすべて共感していたら、身近な人の言葉について、ここまで考えることはしなかった。すると自分の仕事につなげることも無かったと考えると、全く理解できない言葉を受け取ったおかげで、仕事に対する理解と、さらに自分がどんなふうに会話をしているのか浮き彫りになってきた。当たり前かもしれないけれど、相手のことを考えて言葉を選んでいるつもりだし、メッセージのない言葉はない。

「理解できない人」と会話を交わすことは、違いを見出し自分の輪郭をくっきり浮かびあげることなのだろう。結構しんどい作業だけど、向き合う価値がありそうだ。


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