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人と違わなくていい、ただやるべきことをやる。

答えのない問いを追い続ける。「自分とは何か」「生きるとはどういうことか」など、考えてもわからない問いにずっと向かい続ける仏教に夢中なのは、自分の生き方と大きくリンクしていると思ったから。その考えはもちろん今でも変わっていないのだけれど、「自分」に向かう問いがちっぽけに見えてしまうほど大きく、動かしようのない思想があることをドキュメンタリー映画『うみやまあひだ』から学んだ。

伊勢神宮の森を切り口に、様々な人の言葉から自然と人との関わりを描いている。漁師、脳科学者、宮大工や建築家の隈研吾、北野武など多方面で活躍する人のメッセージと共に、伊勢神宮で20年に1度行われる式年遷宮や、毎朝夕に食事を運びに行く神事などが紹介される。

朝夕欠かさず神様に食事を運ぶ神事は1500年も続けられているという。得するわけでもない、見えないものに食事を届ける時の気持ちは一体どんな感じなのだろう。様々な神事の紹介と共に、伊勢神宮を囲むようにある大きな森が画面いっぱいに映った時、目に見えない力がここで暮らす人々を操っているようにも感じた。

仏教の世界でも、「欲」は無いことがよしとされ、無くすために修行がある。生きていれば生まれてきてしまう「欲」を、修行を通して滅していき、ただ「なすべきことをやる」行為に徹することが生き方として推奨されているように思う。

今回見た伊勢神宮の神事では、生きる辛さや苦しみは関係ない。神のために人は木を育て、切り倒す。ある人は舞い、ある人は音楽を奏で、またある人は行脚する。自分の気持ちがどうこうではない、ただ神のためにやる。その淡々と行われる神事を見て、「神に捧げる」無心さがあるような気がしたのだ。

永平寺でお寺修行をした時、200人近いお坊さんが一斉にお経を読む朝のお勤めを見るのが好きだった。ただひたすら、師の教えや仏教の思想を唱えるのみ。誰よりも大きな声を出すとか、少し抑揚をつけてみるとか、そんなことはどうでもいい。個性は必要ないのだ。

神事についても同じようなことが言えると思う。神の前に祈りをささげるのに「自己」は必要ない。目に見えない大きなものに対する、大勢の中の一人でしかない。

人と違わなくていい、目立たなくていい。ただやるべきことをやる。そんなことを言われているような気がして、心に強く訴えるものがあった。

考えることでしか救われないと思っていたけれど、「信じ切ること」にも大きなパワーが宿っているのだろうなと思う。信じたからこそ、1500年以上も続く神事ができたし、神のために祈りをささげることもできる。そこには自我もなく、他人との関係性も不要で、ただ単純に「信じる」だけでいい。

相反する思想にも関わらず、行為に同じことが読み取れる神道と仏教。日本人の思想を作ったこの2つの宗教は、調べれば調べるほど日本人の核心に迫れるような気がする。


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