見出し画像

「自分らしく」「個性を出して」と強要される違和感

「自分らしく生きる」ことに、しばしば悩んでしまう。“自分らしく“とはいったいどんなことを指し、何をすれば自分らしくいられるのだろうか。


「私はこういう人間です」と説明することが恐ろしく苦手だ。なぜなら私の認識通り他者が思っているかわからないし、この先一生“こういう人間“でいられるかどうかなんて保証もない。自分らしくとか、個性を伸ばしてとか言われると、途端にわからなくなってしまう。

けれど、2年前の夏に永平寺へ参禅修行に行った時、「もしかしたら個性とは、わざわざ出そうと思って出るものではなく、にじみ出てしまうものなのでは?」と考えるようになった。服装も、髪形も、歩く姿勢も食べる所作もすべて統一されているお坊さんたちが、なぜだかしっかり区別ができたからだ。

見た目や行動を同じにしても、持って生まれた芯の部分が違うから、自然と違いが生まれてしまう。それが個性なのではないか。

永平寺で約20年間修行を続けた南直哉和尚は、自身の著書「なぜこんなに生きにくいのか」でこう語っていた。

“人の個性というのは、原因ではなく、結果です。何回も同じようにやらせてみたら、結果的にこの人はこんなふうにやるということで認知される、それだけのことです。したがって、いちばん個性的な集団というのは、実はルールのきついところに放り込んで同じことをやらせたときに、きわだって出てきます。”

個性を出さなきゃとか、自分らしく生きなきゃとか、そんな風に考えなくても、生きていれば自分ならではの生き方が生まれるし、出さなくても個性はにじみ出る。「個」の主張を無理に頑張らなくてもいいのだろう。

直哉は続けて、こんなことも書いていた。

“好きなようにしていいというのが、かえって没個性になるのはなぜか。みな、自分の好きなことなどハッキリわからないからです。好きなことというのは、教わらないかぎり、わからないようにできているのです。何が好きかということは、実はサンプルを出されたり、教育をされないかぎり、絶対にわからない。”

私は「守破離」の教えが好きなのだけど、まさに「好き」も守破離が必要なのではと思う。自分は何が好きかは、誰かの好きなものを真似てみたり、オススメの通りにしてみたり、誰かから言われたことを試してみないとわからない。または誰かに言われて初めて好きだと気付くこともある。教えに従い、だんだんと自分のことが分かってきて、結果「個」として確立する。それがいわゆる“個性”なのだと思う。

「個性がない」ことで悩む必要はない。生きていれば自分の個性がにじみ出る。そしてそれは、「生きる」という結果でのみ見えてくるものなのだろう。

去年の毎日note


最後までありがとうございます!いただいたサポートは、元気がない時のご褒美代にします。