穏やかに、当たり前にある存在も「好きなもの」
自分では特に意識していなかったことを、周りの人から「〇〇が好きだね」と言われた経験がある人は少なくないはず。自然とやっている行為から「好き」がにじみ出ていて、自分では気づかないのに言い当てられてしまうのだ。
けれど、実際言い当てられても「その通り!」とまではいかず、これまでの自分を振り返って「確かに、好きかも」と思うことが多い。では、どうして自分で気づけなかったのだろうか。
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以前後輩に、「チョコレート好きですよね」と言われたことがあった。自分では特に意識していなかったけれど、いつも私のデスクにチョコレートがあったそうだ。
確かに仕事中は甘いものがほしくなるから、ストックのお菓子を用意するようにしている。コンビニに入って、お菓子の棚を見て、「今日はこれにしよう」と手が伸びるのは自然とチョコレートだった。
ガルボを買う時は特別な時。これは「好きな食べ物」にランクインしている。一口食べると幸せになれるから、ちょっといいことがあった時や、どこかに出かける時のおやつにしていた。けれど「チョコレート」が好きですね、と言われると「おぉ、そうなんだ」となんとも歯切れの悪い反応しかできない。それは一体なぜだろうかと考えると、私にとってチョコレートが「当たり前の存在」であることが思い浮かんだ。
“デスクに常備する甘いもの”として、チョコレートは「買うもの」という地位を確立している。あると嬉しいとか、食べるとワクワクするとか、そういった次元を超えた、そばにいるのが当たり前の存在だ。それは長年寄り添った夫婦が、若い頃のドキドキする感情がなくても好きであるのと同じような、空気のような存在なのかもなぁと思う。
だから一緒にいても「好き」の感情に気づかないし、いざ言われても「いやぁ、必要だから買ってるんだけどな…」としっくりこなかった。けれどしばらく食べないでいれば買いに行きたくなるし、それはキャラメルでもアメでもクッキーでもなく、チョコレートを買いたくなるのである。
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「好き」の感情は、ドキドキやワクワクだけではなくて、これがあるとほっとするとか、逆に無いと気になってしまうものも含まれる。たくさんほしいわけでもなくて、毎日必ずあってほしいものも、立派な「好き」なのだと思う。
いつも食べるペペロンチーノ、寝る前に電話をかける相手、目覚ましをセットしてからダイブする自分の布団。当たり前に過ごしているけど、実は全部必要で、すべて「好きなもの」なのだろう。
自分では気づいていないけれど好きなもの、誰でもきっとたくさんあって、それに気づけるといつもより少し楽しい日々が生まれるんじゃないだろうか。