日本人のアイデンティティを探る行為
今まで知らなかったものに出会うことは、まだ開かれていない扉を開ける鍵をもらって、カチャリと開けられたみたいで嬉しくなる。
ライター友達きくちさんが主催するイベントに参加し、和ろうそく職人さんと会話ができて、今はまた1つ、鍵を手に入れたような気分だ。
職人の大西さんがつくるろうそくは、植物性の素材だけで作られた、シンプルで上品な和ろうそく。余計なものが混ざっていないところがまた魅力的。
感想はあとでじっくり書きたいな、とも思ったのだけど、後で後で……と思うと書けなくなりそうで。今思ったことだけでも取り急ぎ残しておこうと思う。
和ろうそくの属する業界に驚いた
なぜなら、ろうそくが"宗教業界"のものとして語られていたから…!
ろうそく……というのか、私はアロマキャンドルが好きで、ティーライトキャンドルを日常的に使っている。家の仏壇は「危ないから」と、ろうそくに火を灯しておくことも少なかったので、仏壇やお寺とろうそくがつながるイメージがなかったのだけど、確かに一般的な使われ方は、仏壇で灯すためのものなのかもしれない。
"宗教業界"と聞いて思い出したのは、去年取材した京都妙心寺の春光院さん。当時の人が見ていた明るさと同じように、ろうそくの光を再現して金色のふすまを眺めるふイベントを開催していて、プレス枠で取材させてもらったのだ。
昼間に見るふすまとは雰囲気が全然違い、見ていると吸い込まれてしまいそうだった。「見えない部分がある」からこそ、見えている部分が鮮明に浮かび上がってくる。
先日オンライン坐禅会に参加した時も、坐禅に集中するためキャンドルを灯してみた。じっと火を見つめながら坐禅をすれば、雑念に頭をいっぱいにしないですむと思ったからだ。宗教的なことだからなのかはわからないけれど、仏教においてどんなふうにろうそくが関わっているのか、もっとよく調べてみたい。
どうして火が身近ではなくなってしまったのか
すべてが電気に変わり、人はみんな火を身近に感じられなくなっているーー。イベント中に大西さんからそのような話も出た。
自然のものを考えると、確かに火の存在は徐々に小さくなっているような気がする。水は水道によってもたらされるし、木も家具や小物で取り入れられる。土はもしかしたら、コンクリートで固められてちょっと遠い存在になっているかも。そんな土と同様に、ガスコンロが無ければ家で火を見ることもほぼ無いだろう。
火は、人間がコントロールするにはちょっと技術がいるものだと思う。ずっと見ておかないと家事になってしまうかもしれないし、熱さの調節もこちらがあれこれ工夫する必要がある。触れると熱くて危険だし、怪我をするか、最悪は死んでしまうかもしれない。
扱いにくいもので、とても効率が悪い。効率化主義の現代にはあまりマッチしないのだ。
ただ、あまりにも効率化しすぎてまった社会に、人々は今疲れている。ムダが無いことに息苦しさを覚え、キャンプやリトリートといった自然に還る行動が出てきている。イベントでもお話があったように、人間回帰の傾向から火はどんどん注目されるようになるような気がする(焚火ブームもまさにこれだろう)。
歴史を背負う人がもつ視点について
500年以上の歴史をもつ老舗の和菓子屋さんをインタビューしたとき、考えているスパンがあまりにも長期的で驚いた。
「私たちは500年前のご先祖様が考えたお菓子で商売している。今考えるお菓子も、500年先の後継者たちがそれで商売できるようにならなければいけない」
ロングセラーの言葉も当てはまらないくらい、超ロングセラーを狙っている。なんだか想像もつかないような時間だ。
林業でも、「今、木を植えることは50年後の商品を作ること」と言っていたし、伝統工芸であるろうそく作りももちろんそうで、何十年、何百年と続くことを考えて、どう継いでいくかの視座を、必然的に備える必要があるのだろう。
自然や歴史を相手に商売をする人はこの長さをベースに商いをしていると思うと、自分が見ている先がいかに目の前のことなのかに思い知らされた。
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つらつらと思うままに書いてしまったけれど、長く愛されてきた伝統工芸を知ることは、日本人の本質について知ることでもあるだろうな、と思った。まさにそれはアイデンティティを探る旅。彼らが培ってきた歴史や、それが根付いてきた思想を見ていくと、日本人が本質的にもっている要素が見えてきそうだ。
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