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責任って、なんだろう?

「責任」という言葉が、ずっと嫌いだ。「これくらい当然です。私の責任ですから。」と言われると、興醒めしてしまうのはなぜだろう?ネットで「責任とは」と検索すると、“人や団体が、なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの”と出てくる。しなければならない=must あるいは have to 。やっぱり好きじゃない言葉だった。

中学生くらいから「しなければならない」ことに怒りを覚えるタイプだった、そうだ。「そうだ」と書いたのは、自分では気づかなくて、その後大人になってから母と妹からそう言われたからだ。「みほちゃんはいつも、テスト前になるとイキリ立ってたよね。なんで日本史なんて覚えなきゃなんないの?こんな嘘ばっかの画一化されたものを丸暗記して、今後の人生になんの意味があるんだよ?って、ぶつぶついいながら怒ってたから、私とお母さんはいつもルリー(当時買っていた柴犬)の散歩にそーっと出たんだよ。」これは高校生になってからも続いたようで、意味のわからない暗記や、今後の人生になんの役に立つのかわからない宿題には、いつも罵声を浴びせていたらしい。

それがたぶん大人になって「しなければならない」こと嫌い、として、そんな意味を内包する「責任」という言葉に疑問を感じるようになったのだろう。

仕事のシーンでの「責任」の登場は、大抵こんな感じだ。「私が提案した(売った)からには、最後まで見届けるのが責任です!」あるいは「伝えた(売った)からには、私には責任があります。必ず損はさせません!」こんな言葉を聞くときいつも思うのは、「本当はそれ、やりたくないんじゃない?」という疑い。本当にそれがいいと思って、本当に相手の為を思うなら、そこは責任じゃなくて「愛」だろう。といつも思う。「責任」を「愛」と置き換えて言ってみたら、途端にときめく。

「私が提案した(売った)からには、最後まで見届けるのが愛です!」うん、やっぱり、NICE。本当はやりたくないことを「責任」だと自分自身に言い聞かせ、無理やりやるんでない。____そこに愛はないのか。

子どもを産んだら、責任ゆえに育てるのか。そうじゃないはずだ、それは間違いなく「愛ゆえ」に育てる。愛ゆえ、身体に良いものを食べさせる。なにがあっても守る。必ず、幸せにする。しなければならないからじゃない、したいのだ。至極、積極的に。

そんな「責任をめぐるひとり論争」について、この数ヶ月で新たな議題が勃発。そう、未婚で産む。と決めたときからだった。「相手の男の責任は?」事実を知った約半数の人から言われた。(半数の方が、おめでとう!と手放しに喜んでくれたのも、結構意外であったが。)その都度「あぁ責任か、そういう見方も、あるのか」と長年疑問視してきた自分の中での「テーマ:責任について考える」について再度思いを巡らせるきっかけとなった。

その方々が言うには、責任とは「経済」であり「結婚」であり「同居」であるようだった。子どもを授かったからには、同居し、籍を入れ、経済を負担するべきである。それが子どもができた「責任」であると、その方々は言った。とても、真っ当だと思った。でもそれと同時に、それではなんだか「奴隷」みたいではないか、と思ったのも、事実。それでは子どもは楔(くさび)で、人を縛るものになってしまう。

____そうじゃない。

わたしは望んで、新しい生命を授かったのだ。誰かを縛るためでもなく、もちろん、私自身も制限を科されるわけでもなく、自ら望んで、今というかつての未来を祈ったのだ。責任という言葉をあえて使うのであれば、望んだときから、そして、産む。と彼に相談する前に決めた時から「責任」というそれは、相手の手から私の手へと、移ったのだ。自己責任。

そして今回の「責任をめぐるひとり論争」の結末は、今後の生き方さえも左右する、大きな視点のチェンジとなった。例えば「人間的な視点」でみたら、今をけしからんものとして、見るのだろう。赤ちゃんの生命は男女の折半で生まれたのだから、女性ひとりにすべてを任せるのではなくて、男性側もそれ相当のあれこれを負うべきである。うん、わかる。実に、わかる。

そんな中、たとえば、結婚や戸籍というものは1200年前にはじまった。仮に人類のはじまりが500万年前だとした時、かなり最近の出来事だ。目的も、税金や徴兵のために作られた、まぁ言ってみれば「人間ごと」である。果たしてこの地球は、人間のためだけに、回っているのだろうか?

じゃあ例えば、もう少し視点をたかく、広くしてみたとき、生命というものは、何のためにはじまるのだろう?地球にとって、宇宙にとってどんな意味があるのだろうか?まず間違いなく、生命(魂)はどうしてもこの時代に生まれてくる使命や意味があって、きている。なにかを経験したくて、果たしたくて、きている。じゃあ大人や親である私たちの務めは、なんなのかとさらに想いを巡らせれば、その命をこの地球に誕生させ、その魂が経験したいことを経験できるために、環境を用意し、サポートしていくことが務めなのではないだろうか?これがきっと、「人間ごと」に対して「神ごと」であり、人間的な「肉眼」でみる世界ではなく、もう少し魂的な視点に立った「心眼」なのではないかと、思い至ったのだ。

この世の中は、肉眼で見ると、一見理不尽で、辛いことばかりのように思える。でも一点、心眼で見てみたら、結構割と多くのことが、「これでいいのだ。」と思えるのではないだろうか。

責任をめぐる、私の中でのながい長いひとり論争は、2021年初夏に、思いもよらず「肉眼」から「心眼」で生きる視点のチェンジと相成った。なんだかまた、生きることや出来事に対する感情が、ラクになった瞬間だったのは、事実だ。

心眼といえば「心眼力」という、野口嘉則さんの本は、とてもおすすめです。梅雨の休日のお供に、如何であろうか。





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