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信仰と子どもたちへの想い

最近、気に入ってよく聴いている賛美歌は「ものみなこぞりて」です。
今は、賛美歌21の223番「造られたものは」という賛美歌になっています。

イタリアの修道士が作った賛美歌で、もともとはイタリア語で書かれています。
ゆったりとした美しい旋律に神さまの天地創造をたたえた歌詞です。

何度も繰り返される「ハレルヤ」は、神さまをほめたたえよという意味です。

わたしが洗礼を受けたとき、お腹の中にいた三番目の子は「ハレルヤ」から名付けました。

上の子ふたりも聖書から名前をつけましたが、幼児洗礼は受けませんでした。

信仰は、成長の過程で自分で選んでいくもの。特定の信仰を得ても得なくても、キリスト教であってもなくても、本人の意思を重んじる。そう思っています。

高校生の長男は、外国の小説(主にアメリカ文学とロシア文学)を読むのが好きで、読んでいるうちに、聖書がベースにある小説が多いことに気づき、聖書(特に旧約聖書)を読み始めました。

だからといって、特定の宗教だけにとらわれず、もっと幅広くいろんな宗教や信仰の在り方を吸収したいようです。

長男は中学生の頃、学校に行けなくなりました。高校は留年、休学、転学を経て、同級生より1年遅れですが、来春卒業できる見込みになりました。

今は大学進学したいと、受験勉強真っ只中です。その最中に聖書を読むというのは、彼にとって、きっと意味のあることなんだろうと思います。

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ

伝道の書12.1

長男を見ていて、このみ言葉をふっと思い出しました。

長男が学校に行けなくなった経験から、親として、子どもたち自身の未来を選択する力をまるごと受けとめる度量を与えてもらいました。

それまでは全てにおいて、親のわたしが選択した道を与えようと必死でした。

今回は信仰について特記してますが、子どもたちが出会う「造り主」は、それぞれが神さまのご計画の中で与えられたものです。
神さまと自分自身との関係です。
親のわたしが出る幕はないのです。

そして、この賛美歌の最後の歌詞「大地を与えし」という箇所が好きです。

神さまが天地創造のとき、大地を与えてくださったように、必要なものは必ず与えてくださると信じています。

信仰において、全ては「与えられる」ととらえていますが、でもそれは単に一方的なものではなく、与えられたものを受け入れる「強さ」や「深さ」を伴ったものだと思っています。

わたしは親としてではなく、ひとりの人間として「信じている者には、信じている者としての生き方」があり、それを歩んでいます。

子どもたちにも、それぞれが信じた道を歩んでいく力が、人生があると信頼しています。


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