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家族の死を迎えた時〜悲しみの共有の大切さ

10歳の時、父は海の事故で突然この世を去った。
楽しい夏休みの思い出が一変、私達にとって忘れられない暑くて苦しい思い出となる。きっとそんな出来事がなかったら、忘れてしまっているような当たり前の夏休みの1日だった。

母にとってそれは、私達姉弟が感じるものとは遥かに想像を超えた悲しみと恐怖だっただろう。これからこの幼い子ども達をどうやって一人で育てて行くのか。弟は7歳、私は10歳の夏だった。

母は、私達と共に夫の死を嘆くことは一度もなかった。それよりもこれからのことをもう考えていたと思う。
父が亡くなった3ヶ月後には京都の親元の近くに家を買い、引っ越した。
その決断に私たちへの相談はなかったので、私は言われるがままにその町のお父さんが亡くなった可哀想な子、として転校していく人となった。
当時多くの友達がいて活発な女の子だったので、なんだか変な注目をされていたように思う。弟はどちらかと言うとまだ、入学して半年も経っていなかったので、今では前の小学校のことは覚えていないらしい。私は小学校生活の大半を過ごした滋賀の小学校のたくさんの友達と離れ離れになった。
しばらくの間は、手紙のやり取りをしていた友達が居たけれど、数も少しずつ減っていった。
新しい京都の小学校では、言葉遣いが違ったり、遊び方も違うしルールも違い分からない中、親切にいつも教えてくれるクラスメイトはいた。けれど、四年生の11月ではもう出来上がったクラスに居心地は悪く、よく保健室に行った。クラス替えをするようになって、ようやく少しずつ小学校生活には慣れていった。
そんな時も3つ年下の弟のことは忘れてなかった。楽しくやっているかな。

これは、最近気づいたことなのだけれど、親子で延々と泣いたことはないし、もう忘れてしまってるの?と思える程に話題にも登らなかった、
母としては、あまりにも壮絶な当時の話をしたくなかったらしい、でも私は、悲しみが消えたわけではなくその悲しみがある形で消化しておくべきだった。
それが出来なかったために、本来ならみんなで悲しむべき出来事なのに一人の悲しみに特化してしまった。私は弱音を吐く事が許されず、パパっ子だったその父の温もりを突然失い、生活の変化に戸惑った。
母も必死だったので、私は子どもらしさを失ったと思う。甘えることはもちろん、相談することもなく、いつも母親の顔色を伺って過ごした。


話は変わるが、私は元夫も亡くしている。離婚して10年後、再婚していた元夫が子ども達に会いたいとふらりとSNSで現れた。私は離婚しても息子達との親子関係は大切にしたかったので、いつかその時が来ると思っていた。あいにく元夫も私も再婚していたので、音信不通となっていた。
その連絡が来た時、偶然にも私は再びシングルになっていた。元夫の再婚相手は亡くなったと言うことだった。仕事を定時に終わらせ私は、息子達を連れて大阪へ会いに行った。息子達だけで行かせようかとも思ったけれど、この10年、私はこの子達をしっかり育てていたんだよ!と言う思いで、私も同席することにした。何より久しぶりに再会する親子がどんな感じなのか見てみたかった。
元の4人の夕食。何か不思議な感じがした。元夫はすっかりスマートになっていて、何だか別れた時よりずっとかっこ良く見えた。それから何度か会うようになり、元夫は私達と復縁したいと言い出した。けれど、私にはそれをすぐに受け入れるだけの心構えもなく、この10年どれだけ苦労して来たと思ってるのか!?と反発していた。
記憶が定かではないが、再会して1年ほどが経った時、東京に住む元夫から電話がかかって来て、ごめん、ガンになっちゃった。。ステージ4。と言われた。一瞬、何のことか分からなかったけれど、大阪梅田に出掛けていた私は多くの人が足早に急ぐその場所の隅っこで聞いた瞬間を覚えている。
二人の息子達の高校、大学のダブル受験に向かっている時。長男が東京の大学に行きたいと言い、弟と私も含めてみんなで移住しようと決めてからのことだった。
そこから壮絶なガンの進行と受験勉強が並行し、私達は横浜に住居を構え、私が先に受験の準備をする為に引っ越した。次男が県立高校を受けたので住民票を移さないといけなかったからだ。その後、二人はめでたく志望校に合格し、元夫はそれを聞いて泣いて安心して、長男の入学式の数日前に息を引き取った。
私たちにとって、その人の存在はあまりにも大きかった。息子達は関西に住んでいたし、あまりお見舞いに行くことも出来なかったけれど、生きているうちに自分達の父親がどんな人なのか、接点を持てて良かった。二人は父親に愛されていた。
私とは背景が違うけれど、息子達も10代にして父親を亡くしてしまうことになった。私はその悲しみに寄り添うことが出来ただろうか。少なくとも私は息子達の父親を尊敬していたし、親子3人でその死を悼んだ。今でも亡き元夫の話はよくする。いつも一緒に居る気持ちでいる。息子達はそれぞれの中で父親の死を解釈し、深い悲しみを乗り越えて、亡き父を目標に強く生きている。


この二つの出来事から思ったのは、家族の誰かが不運にも亡くなってしまった時、その悲しみをしっかりと遺された者で共有し、悲しみ切ることが大事だと言うこと。それは後からではなく、その一番辛い時に共有すること。みんなで悲しむこと。それが親を亡くした子どもの心を安定させる近道に思える。
私はただただ、親弟の家族誰にもその悲しさを言えず、一人で泣いていた。ずっとその悲しみを大人になるまでも持ち続けた。共有することはなかった。とは言え、母や弟が悲しんでいないと思っていた訳ではない。それでもすぐに環境の変化に適応し、前向きに頑張っている家族には、姉の立場で弱音を吐くことは出来なかった。お母さんを支えてあげてね、と周りからは言われ、弟の前に私はお姉ちゃんだ。

当時、家族との悲しみの共有が出来なかったことは、想像以上に私に暗い影を落とし、今でも私は孤独である。亡くなった父の写真を眺めては、この世に居ない人の温もりを感じることは出来ず、メッセージももう受け取れない。とても大きな影響力があると、この歳になって改めて思うのだ。
今でも私は行き詰まった時、この二人の写真を眺めている。
そして、間もなく亡き元夫には、長男の入籍の知らせが出来そうだ。


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