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学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」に対する違和感

新しい学習指導要領に謳われる「主体的・対話的で深い学び」という表現に違和感を覚えていたが、その理由がいまいち掴めないでいた。

「主体的・対話的で深い学び」(あるいはアクティブラーニング)が重要であるということについて、異を唱えるつもりは全くない。むしろ、「主体的・対話的で深い学び」が促進されるべきであると考えている。

しかし、教育学部に編入し、教職免許の要件となっている講義を履修していて、「主体的・対話的で深い学び」を促すことに繋がるような学習コンテンツがほとんど見られないことに気づいた。そして、それをこれから教師になろうという学習者に提供する立場にある教育者(教授など)から、「主体的・対話的で深い学び」を促進できる教師を育てようという気概が感じられなかったのである。
(これについては大学によって状況はまちまちであろうし、通信教育の場合は学費が安いことが手のかけ方に違いとして表れるのかもしれない)

教師が「主体的・対話的で深い学び」を提供するためには、教師には様々なスキルが要求される。そして、そのスキルは、過去に教師に求められていたものとは異なるものである。より自由度の高い枠の中で授業を進めていくファシリテーター的な役割もあるだろうし、一斉授業ではなく生徒が主体的に行動できるような環境作りをするサポーター的な役割もあるだろう。しかし、このようなスキルに気づかせ、伸ばすような取り組みが、教員養成課程の中で見られない。

教育指導要領が大きく変わる。

教育現場も変わらなければいけない。

このためには、場当たり的な対処ではなく、根本的な教員養成課程の見直しと、現職の教員の再教育が必要だと考える。自分で創意工夫するにも限界があるし、それが自発的に出来る人もいれば出来ない人もいる。教育カリキュラムがないなら文科省は作るべきだし、教育者がそれを受ける時間がないなら作らるべきだ。そうでなければ、結局実態は変わらない。

つまり、私が感じていた違和感というのは、「主体的・対話的で深い学び」という響きの良い言葉だけが先行して、現場に携わる人間が、そこに求められているものが何なのか、それをどう実践していくのかを本質的に理解できる環境がない、ということだった。

「主体的・対話的で深い学び」というと「知の理論」を思い出すが、「知の理論」を指導しようと思ったら一朝一夕でマスターはできないだろう。根本的に「主体的・対話的で深い学び」を提供しようと思ったら、今までの枠組みを捨ててゼロから学び直す覚悟と時間と努力が必要だと感じている。


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