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旅する私の宗教観①宗教にハマる人は弱い?


世界一周をしている中で、私の大きな関心ごとになっているもののひとつに宗教がある。

日本にいる間はというと、宗教に関する話は親しい友達や家族との間でさえ、全くと言っていいほどしたことがなかった。


タブーとまではいかないものの、「相手にとって踏み込んではいけない話題かも」とか「宗教について語る=変な人、と思われないか」とか気を遣っていたのかもしれない。

もしくは単に、議論するほどの意見や知識を持ち合わせていなかったからかもしれない。


でも今は、世界各地で見る人々の信仰の姿や、そのバックボーンから紡ぎ出される考え方、言葉、振る舞いが、時に私を圧倒し、心を揺さぶり、好奇心を刺激する。


現実世界ではあまり触れられることがない話題だからこそ、旅をする前からの変化、学びとしてここで伝えてみようと思う。


宗教にハマる人は弱い?


宗教を盲信する人は心が弱い人だ。

恥ずかしながら、そう思っていた時期がある。

幼い頃、私の宗教のイメージといえば、新興宗教に大量のお金と時間を費やす親戚の姿だった。
中学生くらいでネット上の情報に触れて、その宗教が一般的にかなり厳しい目で見られていることを知った。

その次に連想することといえばオウム真理教と地下鉄サリン事件。リアルタイムの世代ではないものの、テレビを通して数えきれないほどその経緯を見聞きした。

歴史の授業では、各宗教の創始者の名前や地域、引き起こされた戦争のことは習ったけれど、それはその宗教の本質的理解とはほど遠く、私にとっては「覚えるべき単語の羅列」でしかなかった。


こうして、少ないかつ偏った知識しか持ち合わせていなかった私は、彼らのことが理解できなかった。

なぜ、明らかに科学的でないことを信じて、大切なお金や時間を浪費したり、人を殺したり自殺したりするのか?
なぜ、宗教なしに一個人として自立していられないのか?

そしてポジティブなイメージがなかった宗教について、それ以上知ろうという意欲も、知る必要性も、特に感じないまま生きていた。



始まりは父の死だった


私の中で宗教というキーワードが動き出したのは、父が亡くなった時だった。

全く予想していなかった突然の死に直面し、何一つ整理のつかない頭で、葬儀の準備や遺品整理などの作業をこなし、人前では何事もなかったふりをして、そのあと毎晩1人で泣いていた。

こんなに大好きで、話したいことも聞きたいことも食べさせてあげたいものもたくさんあるのに、何もしてあげられない。もう二度と。絶対に。

それがただただ無念で悲しかった。


何もしてあげられない。
父が亡くなった悲しみの根源はそこだった。


そんな時、あることに気がついた。

正しい手順を踏んで弔ってあげることが、
仏前に備えるために、父の好物を探して買ってあげることが、
空やお墓やお仏壇に向かって、父と会話することが、
何よりも私の心を慰めていた。

そうしている時は、何もしてあげられない悲しみから、少しだけ救われた。


父は
きっとどこかで見てくれているし、きっと今頃喜んでくれているし、きっとこう言ってくれている。

そう信じることでなんとか自分を保っていた。


もちろんこれは科学的な考え方ではない。

もしそこに宗教(ここではアニミズムの概念)がなく、科学だけを信じていたとしたら、骨や写真の前で何を考えても、そこに食べ物や花を置いても、何の意味もない。

父のことを考えながらふと、人は歴史の中でこういう悲しみを無数に経験したのだろう、そして故人のための儀式や独自の観念を編み出すことで、自分自身を慰めたのだろう、そう思った。


なんで宗教なんて信じるのか、と考えていた私が、その宗教の存在意義に心から納得した瞬間だった。



強く生きるために、信じる


「宗教を信じる人は弱い人だ。」

それは間違っていた。


人は皆弱いのだ。

逆らえない逆境や悪を前に、圧倒的な自然を前に、大切な人の死を前に、人はあまりにも弱い。

強く生きるために、信じるものが必要だったのだと、今は思う。



信仰という“習性”


ライオンは群れで狩りをし、コアラは1日のほとんどを眠って過ごす。それが彼らの“習性”。

だからといって、ライオンやコアラが愚かだとか、それをしない個体より弱いということにはならない。逆境に負けずに生きるためにそうしてきただけだ。そしてそれによって今日まで生きながらえてきた。


人間にとっての宗教信仰もきっと同じで、初めからその効用まで全て計算されていたわけではないにしろ、それがあるから強くなれる瞬間、それなしでは自分を保てない瞬間が無数にあったから根付いた習性なのだと思う。

いくら科学の力が証明されようとも、それはここ最近100-200年のこと。太古から長く続いていた宗教信仰という習性には慣性が働きそう簡単には変わらない。一見非合理的にも見える習性を、今でも持ち続ける動物たちがいるように。


人間という生き物の太古からの習性だと考えると、そこにはネガティブもポジティブもない。不自然なことでもない。

そのスタートラインに立ってみてはじめて、日本の外に広がっている宗教的な世界観を、そしてそれを信じている人々を、その暮らしを、リアルに感じ見てみたいと思った。

②へつづく。

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