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本格的にKindleの仕事を始めて6ヶ月。橘隼人の過去と未来

はじめまして。
橘 隼人です。

公務員をやめてもう1年になります。
半分はWebライターとして生活して、もう半分はKindle作家として活動をしてきました。

ずっと夢をみていた個人事業主で自由な生活を手に入れられました。

毎朝3時には起きてパソコンと向き合い、あーでもない、こーでもないと本の執筆やライターとして引き受けた原稿の作成をしています。

自分は友達がいないため、遊ぶということがあまりありません。
妻の実家近くへ転職をしたことから、知り合いなど皆無です。
アラサーで中途入社したせいか、かなり浮き、同期と仲良くなることはありませんでした。

もちろん飲み会や土日のレクリエーションに積極的に参加して、仲良くなろうとしたこともあったのですけど、無駄でした。

そのため、仕事以外の時間は専ら家族と一緒に過ごすという生活です。

公務員を退職したこの1年でたくさんのことを学びました。

以前

・小学校時代から鼻でかと、身体的な特徴で笑われていじめられていました。
・中学はバスケで毎日努力するもレギュラーを取れず
・高校は文化系のクラブで女子が多いところへ所属したが、口下手で全く仲良くなれなかった
・大学は国立大学へいきたかったが、滑り止めの滑り止めのような大学へ入学
・夢を見て弁護士を目指して、司法試験の勉強を開始した
・ロースクールでも頑張ったが、うつ病になってしまい司法試験も諦めた
・市役所へ就職
・県庁へ転職
・村社会で孤独な毎日、定年までここで過ごすと思うと毎日吐き気がした
・公務員を退職する前の自分は、死んだ魚の目をしながら仕事をしていました。

・死ぬ気で頑張って副業で月4万円稼ぐ
・本業と副業で忙しくなって公務員を退職
・月20万円も稼げなかったり、仕事が途切れたりもしたが、学習して仮説と検証を繰り返すことで結果が出てくるようになった
・本を月1冊は出版している
・家族と公務員時代よりも5倍長く過ごせるようになった
・Kindle出版サポートで30万円以上稼げるようになる

何も彩のない人生だったけれど、妻がいて子供ができて1秒でも長くいたいという思いが、ここまで行動力を発揮させてくれました。

自分の人生を振り返っても「自分」という一人の人間が短期間でここまで変わってきたことはありません。

人生で長くて濃い1年でした。

少年時代にいじめられてから、好きな子には話しかけられない、勉強もできず、友達もいない、このまま死んでしまった方がいいのかな、と下を向きながら学校の帰り道を毎日歩いていたのを今でも覚えています。

運命」というものを妬んでおりました。

また、何とか奇跡的に公務員へ滑り込みましたが、同期とは仲良くなれず、仕事に集中したら何でも振られてコキ使われるゴミ箱と化していました。

なんで自分の人生なのに、自分が主役になれないのだろうか、と不思議に思っていました。

家族もいて、不動人気の公務員でもありましたが、一代決心で退職をして、自分の力がどこまで通用するのか行動に移したために、今があります。

今回は、もっと私のことを知ってもらえたらと思って、今までの34年間を物心ついた時から振り返り、どんな人生を歩んだかを書いていきます。

最後までお読みいただけますと幸いです。

少年時代のトラウマ

転勤族だった父を持ったこともあり、地域を転々と幼少期は引っ越しておりました。
よく引っ越しをするにもかかわらず、コミュニケーションが上手くはないため、大体体育の準備運動でペアを組む時は余って、既にできているペアにお願いしに行き、3人でやるか、先生と一緒に準備運動やストレッチをしていた記憶があります。

小学校の最後の方では、数人の心許せる友達ができたのですが、夏休みに友達からの「一緒にプールへ行こう」という誘いを家の留守番を頼まれていたために、断わると新学期から過度ないじめに合いました。

「臭い」と言われたり、プリントが自分にだけ配られなかったり、朝行くと上履きがなかったことが何十回もあります。

大抵はゴミ箱かグラウンドに投げ捨てられていたのですが、水に付けられてすぐに履けない時は先生に伝えて保健室で過ごしていたと思います。

いじめの最中、当時は鼻がでかいことを気にしていたのですが、実際に物差しでサイズを測ってきた奴がいました。
本当に数ミリ程度だったかと記憶しているのですが、「鼻でか・鼻でか」とクラスのみんなから大合唱を受けたことはとても屈辱的でした。
今でも自分の中のトラウマで、初めて会う人にはマスクをつけて会ったりしています。

この時に思ったのは、友達は味方にも敵にもなるということでした。

モテない

中学時代は、父親の影響もあってか、女の子、特に可愛い子を好きになれ、という教えの下、積極的にクラスで一番綺麗な子や可愛い子に声をかけていた時期がありましたが、ドモったり、吃音障害のせいで上手く話せませんでした。

勉強もあまりできなかったことや運動も大してできた訳でもないため、何も取り柄がない中学生でした。
友達と呼べるような存在も何度記憶を辿っても1人くらいしか顔が浮かんできません。

中学の部活は当時、スラムダンクが流行っていたため、バスケ部へ入部しました。
バスケ部に入ればダンクができるようになる、なんて思っていましたが、全く最後までできませんでした。
仮入部の時から、毎日土手ランという1週5キロするランニングを毎日しました。
初めは胃の中を吐き出してしまうくらいに気持ち悪かったランニングも3ヶ月もすれば、部員と話しながら走り切れるようになっていました。

あの当時は「隼人が一番体力があるな!」と言われていて、「レギュラーにもなれるんじゃないか」と言われてました。

しかし、蓋を開けてみると、レギュラーになれたのは

・顧問の先生のお手伝いを積極的にやっていた奴
・土手ランなどの練習をサボる奴
・シュートが上手くないけど声が一番でかい奴

など

実力なんて関係ないやん!
練習真面目にしているの関係ないやん!

っていう同級生がレギュラーに選ばれていました。

この時に、努力って無駄なものの筆頭なのだなーと思いました。

ニートから這い上がる

高校では、もう運動は嫌だと文化系のクラブへ入りました。
美術部のような女子が多い部活です。
ここでなら、彼女の一人や二人ができるだろうと思った矢先に、先の吃音障害や緊張してモジモジしてしまい、仲良くなれた子は全くいませんでした。

高校はいわゆる進学校と呼ばれるところでしたが、大学へは国立大学を志願しておりまし。
しかし、偏差値50もないような人間だったため、滑り止めの滑り止めの大学に何とか引っかかりました。

大学へは深夜のカラオケバイトくらいしかしておりませんでした。
ところが、バイトと学校の往復しかしていない中、まだ頑張ればいけるんじゃないかと、何を思ったのか司法試験に挑戦するようになります。

大学の学部だけではなく、ロースクールといわれる大学院まで行って計5回ほどは受けました。
しかし、いずれも一次試験に当たる択一試験で足切りに合い、論文試験まで進めることはできませんでした。

学部では2回受験し、ロースクールに上がってからは、卒業後にやっと司法試験を受験できるため、実質ニート状態で試験を1回受けました。
公務員になってから2回受けて、計5回受験しています。

しかし、生活費が底をつき、いよいよという時に手当たり次第の公務員試験を受験してました。
春と冬の追加募集をしていた市役所に2回目の受験で何とかギリギリで通過できました。

始めは民間へ就職しようと思いました。
しかし、何をしたらいいのかわからないのと、自分なんか何も取り柄のない人間なんて採用されないのだろうなと思っていたため、公務員しか受験しませんでした。

公務員時代のひどい仕打ち

公務員を続けながらダラダラと司法試験を受けておりました。
あまり勉強をしていなかったため、もちろん受かりっこありません。
現在の司法試験では、1週間は仕事を休んで受験をするシステムになっているため、受験後に職場に戻ると、「誰お前?」と口を聞かれました。

早く辞めたい、早く合格したい、と思ってはいましたが、体は勉強へは向いてはいませんでした。
司法試験の受験資格も失効したと同時に、異動命令が出されましたね。

新規事業の部署へ異動させられました。
当初は3人の職員がいたところを、自分一人で3人分の仕事を押し付けられました

正確には、非常勤職員さんも新しくきていたのですが、思ったように動いてくれないし、扱いにくいし、定時で帰っちゃうしで、自分一人が涙を流しながら午前様になるかならないかまで、毎日残業しておりました。
この時は月の残業時間が100時間超えで、本当に死のうかと考えていたと思います。

課の中の一つの係よりは上な〇〇室というところでしたが、他の課員は見て見ぬふりをして、声を掛けず、さっと定時で帰り、助けを求めても俺は担当じゃない、と拒否されました。
散々上司に懇願してお手伝いを日替わりで誰か寄越すとなりました。
手伝いに来た職員は「一つ一つ丁寧に手取り足取り教えてやったら少しは手伝ってやる」などの上から目線な物言いをされたことをよく覚えております。

実際に教えていたら、自分がする仕事の時間がどんどん減るため、できることもほとんどありません。
ただただ、泣きながら夜遅くまで仕事をしてました

当時付き合っていた彼女が今の妻ですが、実家が地方であったため、辞めて田舎へ引っ越そうという話になり、市役所を退職しました。

その時は、民間への転職を考えたのですが、結婚する前提での転職だったことと、公務員以外の世界を知らなかったため、県庁という同じ公務員の世界へ転職することになります。

県庁では、都会の市役所よりかは親切な人が多かったですが、村社会で陰険なところは市役所と代わりありませんでした。

例えば、誰かが席を立てばその人の噂や悪口を言う、というようなところです。

副業を始める

県庁に転職してから異動があり、地方部署から本庁へ行くことになりました。
地方の時は温かい人もいて頑張れたのですが、本庁では、自分のことしか考えない冷たい人が多く、毎日行くのが辛かったですね。

・公務員だからいいだろ
・高級取り
・定時で帰れる

なんてクレームを受けますが、全くそんなことはありません。
今では公務員といえば、”ブラック”、というのが代名詞ですからね。

給料は確かに平均的です。
最後の月の手取りは住居手当と通勤手当、時間外の手当を合わせて23万円の手取りでした。
多いでしょうか?

でも、残業代は出ませんでした。
正確には、20時以降まで残業すれば、申請してもいいが、仮に22時まで残業していたとしても、20時までしかつけてはいけない、といったところです。

定時で基本的に帰れるのは非常勤職員か仕事をしない、他の人に仕事を放り投げていった職員くらいです。
残った職員は真面目に毎日サービス残業をしています。

特に若手にその比重が顕著で、この構造に気づいた人から泥舟から離脱するように早く退職していっています。

私もここから出ていこうと、副業をすることを決意しました。

異動した4月の時です。

正確には少し前から副業に興味があり、いろいろと手を出しては全く稼げないなーと思って本気ではありませんでした。
この4月に本気になった感じです。

何からやっていいかわからず、YouTubeなどでいいと言われていたプログラミングや動画編集、SNS、ブログなどを経てWebライターに辿り着きました

書くことに抵抗がなかったためと他の副業が100円も稼げなかったのに対して、Webライターでは、すぐに数千円のお金が手に入ったことがライターを始めたきっかけだったかと思います。

副業許可の申請を半ば強引に出し、一応の免罪符を手に入れてライター活動を公務員でいながら続けました。

無謀にも独立

退職する年の4月からライターを本格的に始めてたのですが、退職する夏まで平均で月4万円ほどまでしか稼げませんでした

いえ、もっと稼げたと思います。
しかし、毎日の執筆活動を朝3時から4時に起きて、6時まで、朝食後に電車通勤の中で1時間、昼に構成作成で30分、帰りの電車で1時間の執筆で計4時間から5時間は確保していました。
それでも原稿が間に合わない時は夜に睡眠時間を削りながら、活動をしていました。

そのために、昼間の仕事で一瞬視界がブラックアウトするようなことが何度も続き、このままだと体が持たないな、と思いましたね。

他にも、仕事が山のように振られて手が一杯一杯になっているのに同僚は無関心、上司は頑張れの一言だけを貰う。

そして、サービス残業なのにその時間を競い合う意味がわからない環境、国家総合職のようなエリートでもないのに、偉そうにする県職員の多さなどが嫌になりました。

いつの間にか退職届を提出しておりました。

丁度コロナで在宅ワークをしたいのに多くて月に一度くらいしかできないことや子供も小さかったこともあり、傍にいてあげたいという思いからの決断でもありました。

この決断に、今でも後悔はありません。

目標としては、副業として月20万円稼げるようになってから、退職するつもりでしたが、計画が早まった形です。

退職する際は最後に挨拶などあるのかなと思っていたのですが、課長に一言「お疲れ様でした」と言っただけで、他の人とは口を交わしませんでした。
最後の挨拶も丸一日考えて練習したのに、徒労に終わりましたよ。ホントに。

一度仕事が途切れる

退職後、少し一息ついてから本格的にライター活動を始めました。
ランサーズをメインに仕事の受注を始めましたが、なかなか大変でした。
新人は文字単価1円からがメインなため、1日1万文字も書いてやっと1万円です。
なかなか1万文字は大変です。
何も考えずに書く1万文字ではなく、構成などで書く前に調べることも多いため、1日では5,000文字くらいが限界でした。

しかもランサーズでは、2割の手数料を持っていかれるため、実質4,000円が1日の受け取り金額でした
そのため、30日書き続けて12万円ほどしか手取りを得られません。

このままじゃまずい、ってめちゃくちゃ焦りました。
たくさんランサーズで応募文を出して、落ちても落ち込む暇もないくらいに応募したら、なんと20万円分くらいのお仕事を受注できました。

ところが、納期が重なったり、思ったよりも工程が多かったり、修正回数が多かったりでライターを本業にして2ヶ月目で体と心身がボロボロになりました。

途中までは何とか終わらせられたのですが、残りの数件は納期が過ぎてしまい依頼主から電話で直接怒られたりと、かなりメンタルと体がやばくなりました。

その後すぐに風邪を引いてしまい、1週間は寝込んでしまいました
小さい頃から一度風邪を引くと長引く傾向がある体質で、今回もそうでした。

そのため、まだ受けていた仕事をただの風邪だと「気合いが足りない」など言われたくないなと思い、コロナに掛かって手を付けられないなど、嘘をついて仕事を断ったりしました。

そのため、この期間は一つも仕事がない、まさにニート以上の存在に成り下がっていました。

体が弱っていたこともあり、絶望に落ちた時のような気持ちで一杯でした。

この時は、公務員を辞めて後悔しました
これからどうしたらいいのか、横になりながら涙を流しました。

それでも食っていかなければならない。
家族を養っていかなければ駄目なのです。

仕事からは逃げられても、このことからは逃げられませんでした。

自分には考えることしかできなかったため、考えに考えて、参考になる先駆者を見つけて真似し、仮説を立てて検証を重ねました

その甲斐あって、復活してからは営業方法を変えて企業案件を取れるようになりましたね。

独立して3ヶ月目で月収50万円へ到達できたこともあります。

ただ、永遠と続いた訳ではなく、20万円へ下がったり、支払いを渋られたり、当日になって35万円の案件がキャンセルされたり、二人目の子供が産まれるため、仕事を新しく受けられなかったりと激しい収支の波を受けました。

二人目の子が生まれたらもっと働く時間が短くなってしまい、ストック収入を増やさなくてはならないと感じていました。
何をしたらいいのかというのと、もっと効率がいい稼ぎ方はないだろうか、とずっと考えていました。

あるひとの声でKindle出版へ

営業で結果を出しているプラグラマーの方にアポを取り、営業方法などについて聞く機会がありました。
その際に、ライターとしての次の活動はインタビューライターかKindle出版のゴーストライターだ、とおっしゃっておりました。

インタビューは先の月50万円達成時に使用していた方法でした。
Kindleはずっと書きたいなと、独立した夏から思っていたのですが、ずっと手を付けずじまいでしたね

確かに自分のようなずっと書きたいと思っていた層には需要がありそうだなと思いました。

Kindleを代筆するにも、営業をするにも、自分の本を書いておかなければならない。
そこで、Kindle本の執筆に取り掛かりました。

書きながら、ベストセラーになって家が建つくらい儲かったらどうしよう?
どこまで完璧に書いたらいいのだろうか?
誰がこんな本読むんだ?

など、グルグル思考が頭の中で回りながら、執筆作業をしていたのを思い出します。

初出版の結果は初月2,000円ほどで「え、こんなものなの?」とちょっと残念に思いました。

確かにベストセラー作家さんやよく売れている人は1冊で20万円くらい稼いでいるようです。
「本当に凄いな」と思うと同時に「自分もいつかそのくらいになりたい」と今でも強く思っています。

そして、この1冊をきっかけにKindle出版サポート業をスタートしました。

出版サポートの先輩方の情報を自分なりに咀嚼して、今はまだひよっこの自分は1冊30万円が限界だと判断して30万円の値段設定で営業を始めました。

反応が悪かったり、少し安ければ契約してくれる人もいるため、価格は基本的に高めへ設定しておくべきだと考えました。

1週間くらいで依頼主が見つかり「本当にいいの?」とドキドキしながら打ち合わせに臨みました。

たどたどしく、始まり、なかなかZoomにログインできなかったり、無料サービスのため途中で切れてしまったりと大変でした。
Brainで書いた内容は、その時の失敗なども加味して記述しています

楽をしたいと考えている自分は、素材がこのレベルなら外注しても問題ないと判断して、Kindle代筆をまた別の誰かにお願いしました。

その間に自分はまた次の営業活動をすることを繰り返しています。

決意とこれから

いじめられたことをきっかけに、人に対しては割とドライに考えています。
ですが、公務員になって誰かの役に立っている気持ち良さはなくなってはいません。

誰かの役に立ちたい。
Kindle出版サポートで依頼主からいただいた言葉は私自身もそう思っています。

自分の知見や経験、また自分自身も自己投資を続けているため、そこで得た知識と実践した結果を一人でも多くの人に役立つように情報提供、サポートをして行きたいですね。

最後に、これからの橘隼人は一人でも多くの不幸を幸せに変えていきます

いじめられて心が冷たくなってしまった人
公務員として何も考えずただの作業マシーンとして仕事をしている人
副業の仕方やより多くの稼ぎ方がわからない人

不幸と感じている人に「これを知れて幸せだ」「この方法で幸せになれた」という人を一人でも多く、この国に増やしていけたらなと今もこれからも行動していきます。


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