見出し画像

ありきたりな親密さ

誕生日の2日後に、知り合ったばかりの男性と食事をした。

彼が予約した新宿のイタリアンは個室だった。
お手洗いから戻ると、店員が花火を灯したバースデイプレートを部屋に持ってきた。

「おめでとう」
と彼は言い、私は驚いて、そしてありがとうと言った。
彼には配偶者がおり、なおかつ恋人もいるという話だった。

二軒目のバーは私が持った。
並んでウイスキーを飲んでいると、いちどだけ彼はスリットの隙間から私の太腿に指を這わせてきた。
やっときたか、という思いで、私は素知らぬ顔をしている。算段したよりも、慎重な男だった。会話の端々にも、行いにも、人間としての生真面目さが垣間見えた。
しかしそれは、ひとつの愛に生涯誓約するといった誠実さとはべつのものだ。

一緒にいると、たいていの男性は、自分の話ばかりする。
私がそう差し向けている部分もあるし、私は男に自分語りをさせるのがうまいのだと、勝手にそう思っていた。

けれどこの夜の私は、私の話をたくさんした。
お酒の勢いも借りて、彼が欲しがるままに、流れるにまかせて。
すこし話しすぎたように思う。
隠したいことがあったわけではないけれど、自分から開示する必要もないことは、男女の間にはたくさんある。

会話の弾みで私たちは指を絡ませて、そのままカウンターの下で手を握り合った。
その間にも、彼のiPhoneが配偶者からのメッセージを受信し続けていることを私は知っていた。
子供の写真を添付するのは、浮気抑止の策なのか。絶えず夫の浮気を疑って、いまもどこかで孤独に心を軋ませている女の念が私を怯ませた。

「あなたはもうお家に帰りなさいよ」
4歳年下の男に私は言う。
「まだ大丈夫だよ、あと2時間くらいは」
「慰謝料払うなんて私はごめんだよ。それに、恋人もいるんでしょ?彼女はどうするの?」
「別れようかな」
「別れてどうするの」
思いがけずまっすぐな視線とぶつかる。

「あなたの考えていることがわからないよ」
正面に向き直った彼はややくたびれた表情で言う。美しく張り詰めたその横顔。
すてきな眺めだと私は思う。

もう帰りなさいよと言った、私のことばに、一体どれだけの真実が含まれていたのか。
つくづくどうしようもない女だなと、我が身を思う。施された教育を、ことごとく役に立てない生き方をしてきた。
人を傷つけてはなりません、人のものを盗んではなりません、そんなことは何度も教わったのに、人が自分に嘘をつくことを教えてくれた人はいなかった。先生も親も、自分を欺きながら生きていたのだ。教わったことを身につけないまま、勝手に学んだパーツで日々を組み立てて人生をやり過ごしている。
しらじらしい言葉を吐きながら、絡めた指を決して離さない私は。

男とは新宿駅で別れた。
「また連絡して」そう言って、彼は去った。
体のなかに残る微熱は、数日もすればすっかり冷めるだろう。そしてゆるやかに平坦な時間軸へと戻ってゆく。ありふれた出会いと、ありふれた別れを繰り返しながら、
私は昨日よりも歳をとる。

#恋愛 #男女 #不倫 #日常 #コラム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?