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幸せな「聞き上手」になるには

土曜日に初めて会ったその新しい知人は、1週間で30時間は自分のことを語った。
私の知らない音楽や文学やアートのこと。価値観や生き方や夢について。
何杯かのウィスキーやカプチーノを使ってそれらを全部吸収しようとした私は、急に自分が小さくなってしまったような錯覚に囚われて、始まりかけた関係の前に立ち止まる。

「聞き上手」だと、会った人によく言われる。
それはおそらく、私が相手の「自分語りスイッチ」を押すのが上手いからだろう。

幸せな聞き上手になるにはじつはひとつの大きな条件があると思っていて、それは(意外かもしれないけど)自己愛を満たしていることだ。

自分で自分にたっぷり愛を与えられている状態が、エゴを抑えて相手のエゴをやさしく包み込む土壌を作る。
「私のこともわかってよ!」と思わずに、相手の主張に素直な関心を寄せることができる。

ひどく疲れていたり、メンタルに揺れがある時。つまり自分自身の心をケアする余裕がない時、この特技は一転して自己犠牲的なストレスを生むことになる。
相手の居場所を作るだけ作っておいて、気づけば自分の居場所がどこにもない。
あなたは私のことを何も知ろうとしないのね?
とか、
自分だけ辛いと思ってんじゃねーよ!
とか、最悪の場合は相手を逆恨みする羽目になる。
その間にも、相手は自分を「聞いてくれる人」だと認識しているから、容赦なく自分を流し込んでくる。

「和」を大切にする日本人って、他の国の人に比べて、聞き上手が多いのかもしれない。
でも案外、それを乗りこなせている人は少ないような印象を受けなくもない。
ただ、強制的にインストールされた「空気を読む」という美徳の操縦マニュアルに従って、まあそれの応用編といった趣で相手の話を聞いているというか。べつにそれでも悪くはないんだけどさ。

けっきょく「相手の話を聞く」ことすら、自分の本心から生まれた欲求でない限り、深いコミニュケーションにはたどり着けない。

冒頭の知人より送られてきた、巻物のように長いLINEを読んで、私は自分が疲れていることに気づいた。
高出力で投げこまれる彼の感性や思想はやや難解で、集中すれば理解して返答できるけれど、「YouTubeでシータ波の出る音源だけを流してソファに寝てたい」みたいな気分の時は対応できない。
それで話を強引に切り上げて、
切り上げたあとに後悔をした。

先方からすると、私は気分屋でわがままな人物に映ったかもしれず、
でもそれ以上に、喋らされるほうは喋らされるほうで気力を消耗しているのかもしれないと思ったからだ。
私は「聞いてあげている」と思っていたが、
先方は「話してあげている」と、思っていたのかもしれない。
そういう言い方をするとなんだか冷たいのだけれど、
要するに、私は聞くことが相手を喜ばせることだと思っていて、相手は話すことが私を喜ばせることだと思っていて、双方がすこしだけ無理を続けた結果、コミュニケーションの不全感となってそれが突如露呈した。ということ。

で、なんで無理をしてしまったのかと言うと、結局相手から良く見られたかったからだ。
かっこつけていたのだ。私は。(まあたぶん、相手もそうだろう)

それに気づいた時、
相手との距離を置くよりもまず、自分の内側と対峙して、
「そんなに気取らんでも大丈夫やで」と言ってあげることが、結果的により良い人間関係に還元されるのだと思い至り、
やっぱ自己愛。ってところに行きついたのだった。


ちなみに私がなんでそんな柄にもなく気取ってしまったのかというと、
先方がむちゃくちゃイケメンのくせに文学オタクだからっていうそんな不純な理由は180%くらいありますけど、
そういうダサい自分も全部ネタにしようとしているところが、今の俺にはあるぜ。

#日記 #コラム #コミュニケーション #人間関係





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