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子どもたちは自由に遊んでいないよね という話ぶりに イヤな気持ちになったこと

子どもたちの放課後の過ごし方についての調査を目にした。
読みながら、あぁ、まただなぁ、と思って、少しがっかりする。
まただなぁ、というのは、「最近の子どもたちは、塾や習い事で忙しくて、充分に遊んでいない」と思っている大人がいて、その考えを裏付けることを目的とした調査、というものを、目にすることが多いから。
今回は、アンケート調査を元にしているけれど、そういう根拠すらなく、「最近の子どもたちは忙しくて遊ぶ暇もない!」と言い切る人もいる。

もちろん、それが問題提起のためだということは、分かっている。

子どもの生活の実態を知らない人たちに向けて「子どもが育つための環境をもっともっと整えることが必要です(そのために予算をつけたり、制度を整えたり、人を配置したりしましょう)。」と訴える目的のために、結論ありきの調査が必要になることもある。

分かってはいるけれど、あまりにも紋切り型過ぎて、ちょっと、イヤな気持になってしまったのだ。
目にした調査を個別に批判するという意図ではなく、イヤな気持ちの正体を言葉にしてみたい。

◆イヤな気持ち、その1。意図した答えを引き出すための設問への気持ち悪さ。

例えば「放課後がどうなったらいいか」という理想や、現状への課題は質問しているのに「今の過ごし方で満足している」ことは質問していない。現状に対して、満足なこと不満なこと、きっと両方あると思うのだけれど、あえて不満なことだけを引き出そうとしているように感じてしまう。

それから「放課後にもっと友達と遊びたいか?」という質問。
冷静に考えれば、もっと遊びたい=遊ぶ時間が足りない、とは限らない。
帰宅してから5時まで目一杯遊んだ子どもだって、「もっと遊びたいか?」と聞かれれば、「もっと遊びたい」って答えるんじゃないか?時間的には目一杯遊んでいるけれど、夕飯の時間も気にせずに、夜寝る時間が遅くなってもいいから、もっと遊びたい、という子どもだっているだろう。
(新商品の調査をする時に「この商品を欲しいと思うか?」って値段も提示せずに質問している状況に近い。)
当然、多くの子どもが「もっと遊びたい」って答えるその解答を、「子どもたちは遊びが足りていない」かのように見せるのが、どうにもイヤな気持ちがしてしまう。

◆イヤな気持ち、その2。親への配慮のなさ。

子どもたちが放課後に友達同士で自由に遊べない現状の理由を冷静に読み解くと、保護者が、子どもの下校時間に家にいないことが大きな要因であることに気づく。
学童に通っている子どもは、同じ学童に行っている人同士しか一緒に遊べない。(学校併設だけではなく、民間の学童などを利用している人もいる。)
一部の習い事は「学童替わりに通わせている」という親もいる。(例えば、○○のそろばん塾は、週に何回行っても授業料が変わらないから、学童替わりに行ってもらっている、みたいな話をよく聞く。)
塾についても「高学年になると学童に行けなくなるから、大人の目がある場所として塾に行かせることにした」という話も聞く。
つまり、「学校から家に帰って、そこから、自由に過ごす」ことができない大きな理由の1つは、両親ともに家にいないことなんだと思う。

学年が上がると学童に行く子どもは減ってくるが、親がいない家で、友達と一緒に遊んではいけないというご家庭は多いだろうから、誰かの家で遊ぶこともできない。親も、自分が家にいない間に、子どもが誰かのお宅に迷惑をかけてはいけないと思うし、戸締りも心配だったりするから、「学童に行かなくてもいいけれど、家にいてね」という話になる。

あんまり大っぴらに言う人はいないけれど、子どもが、放課後自由に遊べるためには、実は両親どちらかが家にいないと難しいのが現状。
両親ともに就労している親たちは、こういう議論を見ると「じゃあ、どうしろって言うのさ」って感じるんじゃないか。(少なくとも、私は感じる。)

◆イヤな気持ち、その3。子どもは、「友達と」「外で」「元気に」遊ぶのが正しい、という価値観が透けて見えること。

私も、子どもにとって、遊びが何より大切だよね、と常々お話しているので、子どもにとって遊びが必要なのは当然のことと思っている。
でも、外で駆け回るだけが遊びではない。友達と遊ぶことだけが正しい訳ではない。家で過ごすのが好きな人もいる。1人で過ごすことが好きな人もいる。パズルを解いているのが一番の遊びだという人。大好きな漫画をずっと読んでいたい人。地域のサッカーチームの練習に本気で取り組んでいる人。学校の友達より習い事の友達の方が気が合う人。放課後なんだから、どんな過ごし方でもいいと思う。

少し話がそれるが、私は、「学校」という場は、子どもたちにとって、自分では選択しないようなことも否応もなく体験せざるを得ないところに意味があると思っている。そこには好むことも好まないこともあるし、苦手なことも避けたいこともあるかもしれない。でも、「家族以外の人と出会う」とか「身体を動かす」とか「知らないと困ることを知っておく」なんてことは、生きていく上である程度体験しておいた方がいい。そのことが「好きじゃない」としたら、自分からはやろうとしないからこそ、なにか外的なきっかけで体験できる学校という場に意味があると思っている。
でも、放課後は違う。

1人でいるのが好きな人は、学校の時間は、頑張ってクラスメイトの中で過ごしていたのだから、そこから解放して1人の時間を過ごしたらいい。ずっと漫画を読んでいたい人は、自由な時間はずっと漫画を読んでいたらいい。習い事が楽しい子もいるだろう。

それが、彼らにとっての「一番大切な遊び」なんだと、私は思う。

「友達と」「外で」「元気に」遊ぶことだけが、遊びではないし、全ての子どもがそういう過ごし方が好きな訳ではない。大人が「こうであって欲しい」と思う子どもの姿にあてはめて、そうじゃない現状を問題視するのは、どうだかなぁ、と思うのだ。

***

もちろん、今の子どもたちが、自分たちの思うように自由に過ごせているか、と言えば、決してそうではない現状があるのも分かっている。分かっているからこそ、大人の理想ありきの子ども像にとらわれず、今の等身大の子どもたちにとって、どんな環境を作って行けばいいのか、正しく調査して、そして、子どもとともに環境を整えていきたい。

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