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良い記事を読むと、思慮の浅い自分と出会えてうれしい

最近、ある記事を読みました。その文章はたくさんの人に読まれ、偶然にもわたしの専門領域の記事でした。

その記事を読み終えた後、「無知の知」と言いますか、この記事を読んで、社会の本質を一つ理解できたと同時に、とても感動しました。その時に、ここまでの理解が及ばなかった、自分の思慮の浅さまでも痛感いたしました。

今日は、良質の記事を読んだ後の自分の変化をご紹介します。簡単に言うと、「良質の記事を読んだ方が良い」という記事です。既にそう思っている方は、下記の文章は読まずとも大丈夫です(笑)

さて、良質の記事とは何でしょう。

昨今、沢山の情報が溢れています。しかし情報の質は海千山千。正しいかどうかの価値基準もありません。もはや倫理観や道徳観もないかもしれません。

その上、誘導したい意図があって、虚構から事実が作られる、ということもあるでしょう。そういう意味では、記事の質でいう、質とは何なのか、今の時代わからなくなります。

そんな時代ですが、良質な記事はあります。

良質な記事とは何でしょうか。

わたしは様々な映像が浮かぶような記事だと思います。単に事実を述べるだけではなく、人の心情や想いと事実が折り重なり、まるで情景が伝わってくるようなストーリーのある記事だと思います。

良質な記事の一つをご紹介いたします。

​この記事を読んで戴ければ分かりますが、本当に素晴らしい記事です!大好きな記事です。ぜひ読んで戴ければと思います!

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一般的にはこう考えるとか、常識ではこうだ、と人は思ったときから、思考は停止します。その先に思いを巡らせません。「そんなもんだから」です。

でも「本当にそうなのだろうか」と問い始めてから、常識からちょっと抜け出せます。その「本当にそうなのだろうか」と問いかけて、抜け出せたのは、この記事の場合は、「孤独死はかわいそう」という一般的な発想とは逆の「孤独死は羨ましい」という言葉にありました。

羨ましい?

羨ましいという言葉が発せられた想い。そして、「かわいそう」の言葉の背景を考える、といった調子で、少し振り子で考えてみて、両方の軸から、だんだん輪郭を捉えることが出来ると、孤独死、という言葉自体も、だんだん意味が変化してきました。

孤独死は寂しい。わたし自身もそういう印象でした。

しかし、人はみな1人で生まれて1人で死にます。見守ってくれる人はいても、1人が当たり前ですよね。そういう意味では、人は孤独です。でも、孤独という言葉に寂しさが漂うのは、社会的繋がりが絶たれた状態を連想させるからですよね。

でも、孤独で死ぬまでに、その死ぬまでに、たくさんの医療サービスを受けずとも、普通に生活をしていて、友人とも「明日会おうね」といいながら自宅に戻り、寝ている中で、その時に1人で死んでしまったら、それはまさに「ピンピンコロリ」ですよね。

とても羨ましいです。

わたしはこの記事を読んで、孤独死の意味を深く理解できたことがうれしかったので、この記事を書いています。

この記事を読みながら、孤独死の捉え方そのものが変わってきました。当たり前と思っていたことを、改めて捉え直すことができたのは、この良質な文章を読んだからです。

改めて、良質な文章とは何でしょう。

私なりの答えは、「私が当たり前と思っていたことを、別の視点で捉えてくれて、そしてその結果、思考の幅が拡がり、明るい未来がみえるようなそんな文章」と思います。

思考の幅が拡がると、新たな視点が生まれ、新たな思考が育ち、今までの思い込みに気づくことができます。

そして、思い込みが思い込みと気づいたとき、その瞬間から視野が広がり、様々な考えや生き方に思いを傾けることができるので、広い世界を感じることで、より色彩豊かな人生を歩むことが出来るのかなと思っています。これからも良質な記事に出会っていきたいです!



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