見出し画像

横浜から広島への引っ越し@1983

私は小学校卒業までを横浜市で過ごし、中学に上がるタイミングで広島県大竹市へ引っ越したと、アチコチで書いているのですが、その時が私の初めての引っ越し体験でした。

実際は富山市で生まれた後、わずか50日で富山市から横浜市へ引っ越している(父の残した記録によると昭和45年6月7日)ので、2回目の引っ越しではあるのですが、生後50日のことなんか覚えちゃおりません(苦笑)

ただ言えることは、おそらく転勤命令は半年くらい前に出されると思うのですが、私が母のお腹の中にもうやって来たのは分かっていた頃だろうと思うんですよね(^_^;)

父が母の妊娠を会社に言ってなかったのかもしれませんが(苦笑)、生まれたばかりの赤ん坊を連れて、富山から横浜への転勤を受け入れ、引っ越しを敢行した私の両親は、尊敬せざるを得ません。

きっと大変だっただろうと思うと、両親には感謝の念しか沸いてこないです。


さて我が家にとって二度目の引っ越しとなった、横浜市⇒広島県大竹市への引っ越し。

私は転校を余儀なくされるわけで、両親はその点を一番心配してなかなか私に引っ越しが決まったことを伝えられなかったと後から言っていましたが、私は転校大歓迎!\(^o^)/

それだけ小学校のクラスの雰囲気が悪かったんです(;≧_≦)

男女の仲は悪かったですし、クラスで一致団結なんて雰囲気は微塵もなく、また前も書いたのですが、一生残る卒業アルバムのクラス別コーナーで、私は女子から見たゲスな男子第2位に選ばれるほどだったので、同じ小学校のメンバーが9割進学する中学校へは、行きたくないという気持ちが強かったんです。

そこへ広島県大竹市という、遠い所への引っ越し♪

私は新しい社宅に引っ越すと自分の部屋がもらえるということにも惹かれ、友達関係も最初は不安だけど、〽そのうちなんとかなるだろう~♪の植木等精神で頑張ればいいと思って、諸手を挙げて賛成しました!

両親は私が転校をスムーズに受け入れたことに、逆に驚いたようでしたが(^_^;)


ですが年が明けて昭和58年になってから少しずつ引っ越しの準備をし始めると、新しい本は買っちゃいけない、今ある本も捨てろと指示が下り、私は泣く泣くコロコロコミックとかドラえもんの単行本、漫画等を処分する羽目になりました。

コロコロはともかく、ドラえもんの単行本は最後まで抵抗したんですけどね~、ダメでした。

もしその時抵抗出来ていたら、分業制を公表する前の貴重な「藤子不二雄」名義としてのドラえもんのてんとう虫コミックス(他にオバQパーマン怪物くんもありました)が今も残っていた訳で、どうしても金策に困ったらそのドラえもんを売れば良いということが出来なくなりました(苦笑)
実際に古本屋で、藤子不二雄名義新オバケのQ太郎第1巻(定価320円)に、1,000円の値札が貼られていたのを見たことがありますのでw(;゚0゚)w

あと捨てられたのはプラレール!

これも残っていたら、マニアに高値で転売出来たんですが(コラコラ)、残念ながら処分されました。


引っ越しの準備をしながら迎えた小学校の卒業式は3月18日でしたが、心はすでに新天地へ飛んでいたので、数人の親友とは別れを惜しみましたが、これでみんなとお別れだという悲しさは殆ど無かったです(;^ω^)

むしろ、中学校でいい男になってやる!という反骨心が芽生えてました(/ω\)

卒業式後は引っ越しの準備を私も含めた家族総出で行い、私が横浜市で過ごす最後の日となったのは、昭和58年3月23日でした。

引っ越し前夜に家族3人で食べたラーメンが忘れられないです┳ゞ(^∀^ゞ)

当日は午前中から引っ越し業者のトラックが来て、次々と手際よく荷物を積んでいきます。
狭い社宅でしたが、それでもこんなに荷物があるのかと思うほどでした。

最後に家を出て、馴染みの商店街を通って、三ツ境駅から横浜行きの相鉄線に乗った時は、ちょっとウルッと来ました。

(もう相鉄線に乗れないんだ・・・)←そっちかよ!(笑)

かくして広島県民になるべく、横浜市を旅立ったのですが、仮にその日に新幹線で広島へ行っても、我が家の荷物が届くのは4日後だそうで…。

3泊4日もホテルに泊まる財力は流石にありません💦(父の会社も出してくれないし…...ρ(。 。、 ))

その4日間、どこで何する?と家族会議を開いた結果、富山に一時帰省することになりました。

いつも夏休みにばかり帰省していたので、3月下旬というと富山は寒いんじゃないか?一面雪に覆われているんじゃないか?等と思っていたのですが、実際に富山に着いたら雪なんか全然なくて、拍子抜けしたのも覚えています(^_^;)


そして富山で3泊した後、いよいよ広島へと移動します。

私には直江津から富山までしか馴染みがなかった国鉄北陸本線!初めて富山より西へと向かうことになりました(私の記憶がない、生後50日の富山から横浜への引っ越しの際は米原周りで移動したとのことなので、これも本当は2度目なのですが)。

初めて乗る特急「雷鳥」
ワクワクして乗ったんですが、何故か乗り物酔いしてしまい、新大阪までが苦痛でした(T_⊂)
またその頃は新幹線の本数も少なく、北陸方面と山陽方面の乗り継ぎなんて、全く考慮されてなくてですね(苦笑)
我が家は新大阪で50分、「ひかり」号への乗り継ぎ待ちを余儀なくされました。

今でも覚えている当日の列車は、富山駅9:20発の「雷鳥」で新大阪に13:19に着き、新大阪14:10の「ひかり」で広島には16:08に着くという行程です。

今、時刻表検索サイトで富山 or 広島を9:20に出発し、広島 or 富山へ向かう設定してみてください。
昭和58年3月より、1時間以上早くなっています(^_^;)

「雷鳥」「サンダーバード」になり30分ほど早くなりましたし、新幹線は言わずもがな。

昔よりは広島と富山の時間的距離は縮まった昨今です。
また3年後には敦賀まで北陸新幹線が伸びるので、また広島までの時間も縮まります。
今後どうなるやら先行き不明ですが、個人的には早く北陸新幹線を大阪まで伸ばしてほしいですね~。


か~な~り~話が脱線しましたが、昭和58年3月26日、広島駅から大竹へと向かう普通列車に乗りながら、初めて見る風景は新鮮でした!

広島電鉄が並行して走ってて、その本数も多い!
宮島口付近では、あの宮島がこんなに近くに見える!
噂通り瀬戸内海は島が沢山!

初めて見る風景に大興奮の私でしたが、大竹市で住む社宅最寄り駅、玖波駅に降り立った時は、あまりの寂しさに愕然としました。

どうしてもそれまでの最寄り駅、三ツ境駅と比較してしまうのですが、駅前は賑やかな商店街があるものと思っていたら、お蕎麦屋さんや洋服屋さんはあるものの、閑散としています。
辛うじてスーパーマーケットはありましたが、それが無かったら暮らしていけない生命線みたいな存在でした。

荷物は既に社宅のあてがわれた部屋に搬入済みとのことだったので、社宅へ向かえばよかったんですが、駅前から社宅までは道に不案内なため、タクシーを使いました。

そのタクシーの運転手の言葉の荒っぽいことq(▼▼メ)

父が、この辺りで美味しい居酒屋とかありますかと聞いたら、吐き捨てるように「さーね」と一言。

父も瞬間湯沸かし器なので、爆発しないかと心配しましたが、家族の手前、堪えてくれましたC= (^。^;)ゝ

というドタバタ劇を経て、やっと広島県大竹市の社宅に入りました。

父は早速テレビの接続に張り切ってました。

「土曜の夕方だから、全日本プロレスが入ってるぞ」

おお、忘れていました。私も協力してテレビをまず接続させると、早速プロレス中継を観ました。
詳しくは覚えていませんが、相変わらずドリー&テリーが、ハンセン&ブロディにボコボコにされていたのを覚えています(苦笑)

広島最初の夜は、簡単なメニューで済ませたように記憶していますが、その日はもう片付けとかする時間ではなかったので翌日以降に片付けることとし、その日は親子3人で久しぶりに並んで寝ました。


こう書いていますと、新天地・広島でこれから頑張るんだ!と思っていた37年前を思い出しますね~(p^-^)p

ちょっと寂しいイメージを最初に抱いた街・大竹市でしたが、中学に入るまでに自転車でアチコチ開拓して、思ったよりも店はあるし、社宅から山陽本線が間近に見えるので、毎朝毎晩寝台特急をベランダから見られることも嬉しかったです(^▽^)


こうして私は横浜の思い出をほぼ引き摺ることなく、広島県大竹市という新天地での生活に突入したのでした。


…そういえばクラスページで女子に酷いことを書かれた小学校の卒アルは、どこへ行ったやら?(笑)
私がゲスイ男第2位にランキングされ、いつか見返してやる!と思った約3週間後、横浜から来た転校生は欽ドコの見栄晴に似てる!と言われ、人生がガラッと変わったもんですから、面白いもんですよね(*ノωノ)

サポートして頂けるなんて、心からお礼申し上げます。ご支援頂けた分は、世の中のために使わせて頂きます。