今世やりたいことは、今世のうちに。
───「今やりたいことは、来世に持っていけないかもしれない。覚えていないかもしれない。
だから今世のうちに、叶えてあげよう。今世の自分のために。」
これは、私の敬愛するシンガーソングライター ヒグチアイさんによる言葉。
そんな言葉を、アニメ「ゾン100〜ゾンビになるまでにしたい100のこと〜」をAmazonプライムで完走視聴して思い出していた。
アニメのあらすじは、ゾンビのパンデミックに襲われた世界で、主人公がやりたいことリスト100個を叶えていく話だ。
「死」という普遍的に逃げ切れない期限が 、ゾンビによって、よりいつ来てもおかしくないすぐ隣の存在となった世界。
視聴者側に限りある時間の中、やりたいことはできているかという問いに臨場感を持って迫られるような作品であった。
それを踏まえて。
死とは、なぜ「忘れてしまう」のだろうか。
それは今回の記事的には、二つの意味で取れる。
一つは、アニメの主題であろう通り、
逃げ切れない命の期限をつねに目の前にして生きている私たちは、どうしてもその期限を忘れて、
ときに怠惰になったり、道を外したり、
生きているという実感を持たないような生き方をしてしまうことがあるのか。
例えるならば、夏休みの宿題を、夏休み最終日まで遠ざけているのと同じだろうか。
主題からは少し逸れるかもしれないが、それこそが「幸せ」であるのかもしれない。
幸せだからこそ、期限なんてものは忘れる。
死を意識する必要がないことが、一種の幸せ。
もし、逆にこれをもとに不幸を定義付けるとするならば、常に死を意識している状況こそが、不幸ということになるのだろうか。
実際、私としては暗黒時代に身に覚えがあるから、あながち間違っていないかもしれない。
けれど、いざそれでいう不幸的状況を脱して、心穏やかに過ごすようになってみれば、
今度はあまりに死を意識しなくなったせいで、今は無期限の宿題を、机に投げ出したままでいるようではないか…。怠惰の極み。だが、これは幸せでもあるという、なんとまぁフワフワとしたことよ。
なんにせよ、死とは生きている限りで、
その期限が実際に明日来ようと、
意識することを忘れてしまう。
忘れていなかったら、毎日が「最期の日」だという覚悟のようなものを持って、もっと行動できているのではないかと思う。腑抜けた今の私は、それが出来ていない。
仮にそのように律することができている人たちは、どうやってこれを忘れないようにしているのだろう。それも、不幸的状況ではなく、幸せなままで。
夏休みの宿題、序盤に終わってるタイプなのか、
はたまた悲観主義だからこそ、前にすすめるようなものなのだろうか。
そしてもう一つの、「死を忘れる」。
序文に書いたヒグチアイさんの言葉。
ややスピリチュアルな考え方なのかもしれないが、なぜ人は、死んでしまったら、
その一生で得た想いも、言葉も、記憶も、
忘れてしまうのだろうか。
私はいわゆる前世来世を信じている人間、
というか、限りなく可能性が0でも、無いと否定できないものは有って然りという考え方の持ち主なので、前世来世だの霊的世界だのがさも有るのが常識のように語ってしまっているが、今回はその体で話を進める。
「あの世に持っていけるのは、愛だけ。」
そんな言葉を内なる自分、あるいは誰かから聞いたような気がする。
忘れたくない夢も、希望も、絶望も
善し悪し関係なく、等しく、
死んでしまっては、あとかたもなく無くなる。
そして前世が終わって始まった今世にも、私個人としては前世の夢ややりたいことなんて、全く覚えていない。身体が覚えてるようなものはあるかもしれないが、そんなやりたいことに付け合わせしていた想いなんてのも、思い出すことはできない。
前世の自分も、今世の自分も、来世の自分も、
全部同じような別人。
次があるようで、もうないのが、理。
強くてニューゲーム、ノーコンティニュー。
それを考えれば考えるほど、「次はない」という、まさにゾンビに追われるような死という期限への切迫感に駆られる。これはこれで、良い緊張感なのかもしれない。
二つの死への忘却を乗り越え、否、上手く付き合っていかなければならない。今を生きている限り。
自分のやりたいこと、あるいは今やるべきことや、夢を叶えるためには、
今の今、今世のうちに、今の私が私でなくなる前に動かなくては。
来世にやりたいことは持っていけないという概念が、私に死という期限へのミッションの解像度をあげてくれた気がした。
今世やりたいことは、今世のうちに必ずやる。
明日ゾンビに食われても後悔しないように。
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