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#2 なぜ助産師になったのか

助産師のHiroです。
今年の目標の1つとしてずっと書きたかったnote。
昨日、note書く宣言をして第一歩を踏み出せたので、少しずつ前に進んでいこうと思います。今日は自己紹介の思いを込めつつ、私がなぜ子どもを三人産んでから助産師になろうと思ったかを書いていこうと思います。

あの頃の自分を受け止めたい

助産師という職業をまともに知ったのは、実は長男を妊娠してからのこと。

大学を卒業してすぐ地元の小さな新聞社で働いていた。まともな教育体制もなくどうすればちゃんと記事が書けるのか悩んでいた私に、記者ハンドブックの存在を教えて記事の書き方をアドバイスしてくれたのが記者クラブ仲間の夫だった。知り合って1年ほどたった時、つきあってもいないのにいきなりプロポーズされた。

夫のことは尊敬していたので、プロポーズ自体はうれしかった。でも、自分の生まれた町で記者として働くのが楽しい毎日。それなのに結婚して「記者」というアイデンティティを失うのかという素直に喜べない気持ち。
そんな私の気持ちを理解して、夫が社長とデスクに直談判してくれて、夫の働く県紙に転職することができた。地域スポーツを扱う新しい部署を新設する、その立ち上げスタッフとして働くことになった。

先輩と二人の新しい部署の立ち上げ。体育協会や競技団体を回って人脈をつくり、大会日程や記事になりそうな情報提供をしてもらう。スポーツ写真の撮影技術を勉強したり、紙面構成をどうするか大きな県紙を取り寄せて検討したり。転職して半年が過ぎ、試行錯誤する中で少しずつ紙面づくりが軌道に乗って楽しくなってきたころ、長男の妊娠がわかった。

転職の面接で「結婚しても30歳まで(当時22歳)は子どもを産むつもりはありません」と採用してもらったのに、半年後に妊娠してしまうなんて。
妊娠を確認しにいった産婦人科で、「おめでとうございます」と看護師に言われ、胸が締め付けられたように苦しくなりそこからの記憶がない。

夫に妊娠を報告して「中絶したい」と言ったのは覚えている。「なにアホなことを言っとるんや」と言われ、夫婦で会社に報告したけどその後しばらくの記憶もない。
妊娠の受容ができないまま時間が流れていった。赤ちゃんがおなかで動き出すようになると、自分が自分でなくなってしまうようで気分が悪くなった。こんな母性のない自分が、子どもを産んで育てられるのだろうか。先のことを考えると不安ばかりが募る。何も考えたくなくて、夜遅くまでがむしゃらに仕事をしていた。

そんなころ、引っ越しをして病院を変わった。
これまで通っていた総合病院とは違い、UNICEFから「赤ちゃんに優しい病院 Baby Friendly Hospital」の認定を受けている母乳育児にこだわる小さい産院だった。その当時珍しかった助産師外来をやっていた病院で、医師の診察のあと毎回助産師に面談を受ける時間があった。

仕事のこと、食事のこと、どんな風に暮らしているか、産後の準備はできているか、医師とは違いじっくり話を聞いてくれる。そんななかで、「赤ちゃんの胎動が気持ち悪い」「自分には母性がないと思っている」と話す私を何も否定せずに、その時の助産師が私を変える言葉を伝えてくれた。

「Hiroさんはお仕事が大好きなんですね」

その言葉を聞くまで、私は「おなかの子どものことが嫌い」なんだと思っていた。でも、その言葉を聞いてそうじゃないんだってわかった。
私は「仕事が好き」なんだ。だから、出産したら仕事が続けられるか不安で、妊娠を受け止められずにいるんだと。
それがわかったら「仕事も子育ても両立してみせる」と、初めて腹が決まった。人生からの問いにイエスと答える気持ちになれた。

助産師になろうと思った理由はたくさんある。
その中でも一番大きな理由は、あの時私を変えてくれた助産師のように、「妊娠出産という女性にとって大切な人生の瞬間をその人らしく生きられるようにサポートしたい」ということ。
自分の原点を忘れないようにnoteが書けてよかった。

1666字 106分



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