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ホモデウス録2 女の子にしかわからない出産の痛み

こんなことを昔言われた覚えがある。
「おんなのこは、出産のときに【カンチョーの100倍】痛いおもいをするんだから!」いつだったか。
男性が女性の出産時の苦痛を理解できないことに対してフェミニズム的に非難されることが多々あるが、生命の誕生に際しての特別な痛みというのに想像が及ばないことは、そりゃ、その"神秘"のための洞穴を持たない我ら男性の限界である。

しかし、この問題には見かけよりずっと深い、男女のたかが性差の次元でない問題が潜んでいる。
女性とは、だれであるか、という問題だ。

いま、あなたの妻がいよいよ出産を直前に控えているとしよう。さっきまで家で安静だったが、急に苦しみだし、救急車を呼ぶ羽目になってしまった。
そうして病院にて助産師が横で懸命に、ベッドの上の妻に声をかけ続けているのが現在である。すかさずあなたも愛妻にエールを送る。
そうして、無事に頭から新しい生命が降臨してくる。痛みは頭が(精一杯変形しているとはいえ)通過するとき最も痛くなる。頭の峠を越えると助産師がある種もの扱いで彼を引っ張り出す。痛みの「ピーク」である。
それから新生命は血を拭われ、自分の出てきた洞穴の所持者である母に抱かれる。
その顔を見て、あなたの妻は安堵する。この安堵中から、出産数日間に、ホルモン系がコルチゾールとβエンドルフィンを分泌し、これらが痛みを和らげ、安心感を与え続ける。さらには喜びの感情をももたらす。そうして我が子を家に連れて帰る途中、通りすがりの人々から暖かい目で迎えられ、帰った後も数日間から、もしかしたら数十年先でも、家族や友人、宗教関係者、国家全体からその出産という一連の出来事について賛美される。ハッピー「エンド」を体験する。
こうして、あなたの愛妻は子宝に恵まれた愛しい日々を送っていく。

さて、上記のストーリーについて先ほど書いた問題をもう一度整理する。「あなたの愛妻」とは、いったいだれなのか。

ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞受賞。著書「ファスト&スロー」はあまりにも有名)は、この一連の出来事について、「愛妻」の自己を2つに分割する。経験する自己と、物語る自己だ。
経験する自己は、そりゃもう壮絶な戦いを経験して、こんな痛み二度と経験してやるものかと思うだろう。
しかし物語る自己は違う。カーネマンは、物語る自己は「ピーク」と「エンド」の2要素の平均で物語る、と主張する。ピークがいかに壮絶で地獄だったとしても、エンドは人間社会にとっての最高ともいえる栄誉である。カーネマンの主張に従えば、経験する自己よりも、あなたの愛妻の物語る自己は圧倒的に「幸福に満ちて」この経験を評価することになる。
そして物語る自己が、物語る。

さて、そういうわけで、ある程度の日時が過ぎれば、つまり周囲からの拍手喝采によってハッピー「エンド」に近づき、物語る自己の評価が高まれば、また出産をしてもいい気になる。

従って、物語る自己からすれば、長期投資的視点では出産の痛みはそれほど評価に悪影響を及ぼさないことになる。
とするならば、「おんなのこは、出産のときに【カンチョーの100倍】痛いおもいをするんだから!」の「おんなのこ」とは、いったい誰なのか?これは、経験する自己が顕現しているということなのか?

出産の痛みを評価するとき、その瞬間ではなく、あなたが、子どもとともに社会からどう受け止められているか、という点が結局は重要なのではないのか?ともすれば、出産という瞬間痛から逃れ、やはりとるに足らぬ痛みであると認識できるに至るのではないかと思う。

女性だけではなく男性他すべてを集合した「人間」において、痛みと並ぶすべての感情を感じ、保有する自己という意識概念を疑う。
ホモデウス第3部ではこれが繰り広げられる。


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