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ヤン・レッツェルとホテル②-宮島ホテル
前回に続き、かつて宮島にあったホテルとその資料に関するお話です。
その①はこちら。
既存建物の火災等で当時宮島ホテルの経営は不安定な状態でしたが、レツルが設計した新館やそれに続く和館の増設により、経営陣は今後観光客も大いに増加するだろうと期待していました。
ところが新館竣工と同じ頃、欧米では第一次世界大戦が激化。観光目的で訪れる外国人は目に見えて減少していきます。
"戦時中ニ於ケル本期ハ来遊客最モ多キ春季節ニ入ルモ米国人ノ来朝殆ド其姿ヲ認メズ為ニ不振其極度ニ達セリーー"-大正7年上半期
宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991,p62
7.絵葉書-大日本麦酒株式会社
大正12(1923)年の臨時株主集会では、経営不振の責任を取るため社長と重役一同が辞意を示します。
その時、説得に当たったのが当時の筆頭株主であった馬越恭平氏(大日本麦酒会社社長=アサヒビール・サッポロビール等の前身)でした。
"本社の宮島ホテルに投資せるは利益を目的とするものに非ず、日本三景の一たる宮島に内外貴顕を迎うるを光栄とする所為なり、将来処分株ある時はその株数を問わず、全株十六万円の歩合なれば何時にても同社にて引受ける"
宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991,p31‐32
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感銘を受けた役員達は奮い立ち、そこから約3年間何とか経営状況の改善に努めましたが、苦しい状況は続きます。
大正15(1926)年、いよいよ殆どの株を大日本麦酒株式会社に譲渡する運びとなり、同社大阪支店の高橋龍太郎氏がホテルの経営に当たる事が決まりました。
大正期の大日本麦酒の絵葉書をよく見ると、工場写真と共に宮島と思われるシルエットが描かれています。
利益目的ではない、この地へ抱く馬越氏の情熱的な思いによって、宮島ホテルは新たな時代へと継承されたのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
第一次世界大戦の終戦に伴い、外国人観光客は勿論、馬越氏が願った通りに国内外の賓客らが宮島ホテルを訪れるようになりました。
同時に経営陣は多様なイベントを企画して、さらなる旅客の呼び込みに力を入れ始めます。
クリスマスの催し、海水浴の案内、割引券。そして各地の旅行会社にホテルのパンフレットや宣伝ビラを多数配布しました。
8.特待券
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これは広告等に付属していた特待券です。背景にはうっすらとホテルのマークが浮かび、可愛らしい飾り枠で囲われています。
宿泊や食事だけでなく、写真館や交通費の割引も対応している何ともお得な一枚。
同じ頃に発行された宮島観光協会や大蔵省の資料には花田写真館、もみじ写真館と言った名前が確認出来ますが、これらがホテルと関係があったのかは不明です。
9.パンフレット-3種
下記で紹介するのは昭和に入ってからのパンフレット3点です。
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宮島の上空に烏が舞う様子が描かれたもの。
八咫烏は厳島神社をこの地に創建するように導いた神の使いとして、古くから信仰されてきました。
裏表紙に日本語の案内、大鳥居の写真を左右に開くとさらに写真6点と英文の案内が現れます。
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宮島ホテルの料金表で最安値となるのは
・シングル(バス無し)1人1室3円〜5円
(食事付きの場合は9円〜11円)
同じ頃の大阪ホテルの料金表では
昭和6(1931)~昭和10(1935)年
・シングル(バス無し)1人1室5円~
部屋の広さによって差はあったようですが、ほぼ同等の宿泊料で利用できたようです。
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こちらは大鳥居を背景に鹿と舞妓の姿が描かれた華やかなもの。烏のパンフレットより少し後に発行されたものと思われます。
当時の宮島では商船桟橋のすぐ側の地域(ホテルのある大元公園とは反対側)が、花街として大変賑わっていました。
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避暑と海水浴のご案内
こちらは夏に合わせて旅行会社へ配布されたパンフレット。より親しみやすい絵柄で避暑地としての厳島の魅力が綴られています。
大元浦は遠浅の海岸で、海水浴や潮干狩りに適した場所でもありました。
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10.設計図
パンフレットの写真と合わせて、内部の様子をさらに詳しく見ていきましょう。
大正4(1915)年に発行された『建築世界9巻』の口絵に当時の設計図が掲載されています。ここで紹介するのは東京藝術大学で製本し直された同雑誌の複写を送って頂いたものです。
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(建築世界第九巻第一号 口絵)
玄関からホテル内に入ると小さな広間があり、正面に階段室、右手の廊下奥に待合室、左手には大食堂があります。この大食堂は図面で見ると十二角形になっており、配膳室、応接用の食堂、そして塔屋の1階にあたる小食堂と繋がっているのが分かります。
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(奥の明るい部分が小食堂)
松島パークホテルが建物の中央に塔屋を配していたのに対して、宮島ホテルは建物に付属するような形で塔屋が設けられています。
食堂からは宮島の木々の緑と眼前に迫る海とを楽しむ事が出来ました。
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食堂に併設する形でバーカウンターもありました。
設計図には酒庫の記載があるので、この周辺に設置されていたのかもしれません。
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(鏡にはアサヒビールの文字とマーク)
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(建築世界第九巻第二号 口絵)
2階、3階は殆ど同じ造りで、塔屋部分は少し広めのダブルルーム。
浴室付きの部屋は2室のみで、他は共用となっていました。
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運動場と書かれている場所は、パンフレット発行時にはテラスとして使われていたようです。
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(建築世界第九巻第三号 口絵)
さらに上階、4階は屋根裏部屋以外に客室は無く、左手側の廊下を進むと展望室が設置されています。
現在では建てる事が困難な木造4階建からの眺めを楽しめた事でしょう。
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こちらはホテル専用のモーターランチ。
宿泊客、食事利用客問わず、到着時間に合わせて待機していたホテルの係が出迎えました。
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、ホテルの内装については昭和4年(*注1)、グロスター公ヘンリー殿下の訪日に際し、下記のような記録が残っています。
"再び鉄道省に譲渡の儀決定し、五月十九日、英国第二皇子グロスター公殿下並びに従者十五名当ホテルに御仮泊に当り、門司鉄道局に於ては数万円を投じカーペット、カーテンを新調し、食器類は山陽ホテルより高貴用品を運び、ボーイ数名を派遣し、既に鉄道省直営の如く見えしも鉄道大臣小川平吉に背任事件あり。"
宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991,p32
大日本麦酒株式会社大阪支店長の高橋氏がホテルの経営に当たった後、
賓客をもてなすのに相応しい内装・設備を整える事が急務となっていました。もし鉄道省直営となれば、決して順風満帆とは言えない経営状況からホテルを存続させる更なる一手となるはずです。
当時の数万円の価値を今の価値に置き換えると2万円=約1200万円。(企業物価指数による)
それ以上の金額を投じていた事になります。
ところが鉄道大臣小川平吉らが起こした『五私鉄疑獄事件』と呼ばれる贈賄事件によって事態は一変します。
司局の捜査は本来無関係のはずの宮島ホテルにまで及び、続いて起こった内閣総辞職がホテルの譲渡中止を決定付けたのです。
この時、鉄道省内部では観光誘致策として2つの案が挙げられていました。
一つは宮島ホテルを買収して直営にする案、
そしてもう一つは各地のホテル設置申請を受けて、蒲郡や金沢に新規ホテルを建設するというものです。
結果的に小川大臣が推し進めようとした前者の案は無くなり、昭和9(1931)年、旅館常磐館の別館として蒲郡ホテルが竣工・開業します。
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このホテルは戦後米軍に接収・解除の後、台風の被害を乗り越えて、平成24(2012)年に蒲郡クラシックホテルと改称し、今なお優美な姿で宿泊客を迎え入れています。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
国策ホテルが次々と開業し始めた昭和初期。大きな転機を逃した宮島ホテルは次第に第二次世界大戦の渦に飲まれていくのでした。
その③に続く。
(本文:りせん、編集:ryugamori)
【参考文献】
建築世界社.『建築世界 第9巻』,1915年
交詢社.『日本紳士録 17版』,1912年
交詢社.『日本紳士録 31版』,1927年
運輸省.『日本ホテル略史』,1946年
森啓造「宮島ホテル沿革」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991
株式会社宮島ホテル.「宮島ホテル営業報告書綴」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991年
下郷市造.『ホテルの想ひ出』大阪ホテル事務局,1942年
博文館.『旅程と費用概算 昭和6年版』,1931年
博文館.『旅程と費用概算 昭和10年版』,1935年
帝國鉄道協會.『帝國鉄道協會會報30(7)』,1929年
寶來正芳.『日本憲兵昭和史 上巻』,川流堂小林又七本店,1939年
(*注1 『宮島ホテル沿革』では昭和5年となっているが、グロスター公ヘンリー殿下の訪日は昭和4年である)
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