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ヤン・レッツェルとホテル③-宮島ホテル
前回に続き宮島ホテルのお話です。
その②はこちら。
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・ホテル譲渡と戦後のこと
昭和15(1940)年、大日本麦酒株式会社は広島市内の新天地にアサヒビアホールと食堂を設置します。
当時の新天地は劇場やカフェーが立ち並び、広島で最も賑わった繁華街。宮島ホテルの損失をこの食堂の売上で補填出来るほどでした。
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第二次世界大戦の影響で再び外国人旅行者は減少していき、太平洋戦争開戦以降は日本国中が労力と物資の節約を迫られます。
宮島ホテルでは送迎用モーターボートを自由に出す事が出来なくなり、観光客は少し遠回りをして遊覧船を使って島を訪れていました。
そんな状況であっても宿泊客への心配りは欠かさなかったようです。
ホテルでは石炭がなくてスチームが焚けない代りに、大火鉢を二つ部屋へ入れて、木炭を山とおこしてサービスしてくれたのだ。そして有る限りの種類を集めたコンビネーション・サンドイッチを大皿で出してくれた。
物は欠乏してきてこそ貴さが判るが、それだけの心遣いは染み染みと有り難かった。
『Hotel review = ホテルレビュー7(79)』,日本ホテル協会,1956,10p
昭和19(1944)年、遂にホテルの経営は今後困難であると判断され、広島財務局へ譲渡する事が決まりました。
宮島ホテルの建物は税務講習所として使用されるようになりますが、終戦後、9月に襲来した枕崎台風による被害ですぐに閉鎖となってしまいます。
破損した箇所や館内設備の改修が終わると共に進駐軍に接収され、英連邦軍の保養所として使用されるようになりました。
ただ、この改修は「(レツルの建物を)再びホテルとして営業出来るようにしたい」という県の提案から芸予観光協会の東正明氏が出資し、ゆくゆくは彼に経営を委託する前提で行われたもの。
(その手続きの最中に接収となり、保養所は軍が直営していました)
接収解除後は、一般観光客向けのホテルとして再開出来るはずでした。
"八月五日 宮島ホテルは十月三十一日正式に返還する旨内示された。"
しかしそれは昭和27(1952)年8月31日、建物3階北側からの出火によって叶わぬものとなりました。
後に中国新聞社が刊行した『中国年鑑 昭和29年度版』には燃え落ちたホテルの写真が掲載されています。
接収が解除される2ヶ月前、宮島ホテルは全焼してしまったのです。
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11.絵葉書-灯籠と海岸線
令和5(2023)年6月、4年ぶりに宮島へと向かいました。ホテルのあった大元公園には現在、国民宿舎 みやじま杜の宿が建っています。
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ホテルの焼失後、この場所には昭和37(1962)年に国民宿舎宮島ロッジが開業しました。現在の国民宿舎は平成5(1993)年に建て替えられ、改称されたものです。
宮島ホテルの塔屋が写る絵葉書と見比べてみました。
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手前にある大きな2つの灯籠、そして僅かに残る石垣と宿舎の立地は、かつてここに絵葉書と同じホテルがあった事を明らかにしています。
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宿舎入り口手前には、前田虹映の絵にも描かれていた『史跡及名勝 厳島』の碑が昔と変わらず立っています。
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厳島神社へと続く道からホテルの方を振り返ると、記事その①で紹介した絵葉書の景色が浮かんできました。
かつて目の前にあった海岸は埋め立てられて、現在は宮島水族館が建っています。
海から少し遠くなっても灯籠の並ぶ様子は昔と変わらず、宮島ホテルがそうであったように、木々の間から杜の宿がひょっこりと姿を見せていました。
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・歴史民俗資料館へ行く
大元公園へ向かう途中に立ち寄った場所がありました。事前に連絡を取っていた宮島町立宮島歴史民俗資料館です。
遠方に住む私が一方的に思いを寄せている宮島ホテルが、宮島の人達にとってはどのような場所だったのか知っておきたかったのです。
応対して下さった係の方に宮島ホテルの資料をご紹介頂いた後、お話を伺いました。
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これまで、実際に宮島ホテルを利用した事のある方が資料館を訪ねてくる事が何度かあったそうです。
幼い頃に家族と一緒にお洒落をして食事をしに行った方のお話。
そして戦後、保養所となっていた時にクリスマスパーティーに呼ばれた事があると言う方のお話。
食に関するお話が多かったのはこれまで閲覧してきた資料から受ける印象の通りでしたが、保養所時代の話は驚きと同時にどこか安堵のようなものを感じました。
数奇な運命を辿ったホテルでしたが、現地の方の中に思い出として残る姿も確かにあったのです。
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12.絵葉書-広島とレツルの話
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少し時を遡ります。
こちらの華やかなデザインの絵葉書は大正4(1915)年、広島県物産共進会開催時のものです。
右に写るのは竣工と同時に共進会第一会場となった広島県物産陳列館(後の産業奨励館)。
産業の発展を願っていた場所が今は原爆ドームと呼ばれるようになり、日本だけでなく世界中の人々にとって大きな意味を持つ場所となっています。
左に写るのは厳島神社の大鳥居。
風光絶佳の美しい姿は人々を魅了し続け、宮島は絶えず観光客が訪れる場所となりました。
宮島ホテルが竣工するのは物産共進会から2年後の事ですが、この時既に県知事から依頼を受けたレツルが図面を完成させています。
広島での設計業務は、当時仕事が少なく苦境に立たされていたレツルにとって『知事は私の仕事を好んでくれ、広島に招いてくれた』と奮い立たせてくれるものでした。
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しかしながら第一次世界大戦の最中、彼の国籍があったオーストリア=ハンガリー帝国は日本の敵国となり、仕事は再び激減。チェコが独立した後には臨時商務官の職につき、設計業務から離れました。
さらに大正12(1923)年の関東大震災で、自身の手掛けてきた多くの建築物が失われるのを目の当たりにしたレツルは、被災により自らも財産を失いチェコへ帰国。その後体調を崩して、45歳の若さでこの世を去りました。
物産陳列館や宮島ホテル、松島パークホテルの辿る運命を知る事はありませんでした。
絵葉書に写る2つの場所を見ると、自然とレツルの事を思わずには居られないのです。
そこには時代に翻弄された建築家が、県知事の期待に応えて成功を夢見た頃の情熱が残っているのかもしれません。
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おわりに
古本市での出会いから1年と少し、宮島ホテルの事を辿るお話はここで一旦おしまいです。
失われたホテルを追う意味はあるのだろうか、と考える事が何度もあります。
けれどもホテルの跡地に行くと、いつもそんな思いは吹き飛んで、在りし日の堂々とした姿が浮かんでくるのです。
そこで食事をした人、勤めていた人、部屋から見える景色を愛した人、そして建物を建てた人。
今回もまた、絵葉書とホテルに関わった人達の思い出とが宮島ホテルへと誘ってくれました。
初夏、そこは潮と若葉のホテルになるのだそう。
次に宮島を訪れる際は杜の宿の部屋から、ゆっくりと海と緑を眺めてみたいと思います。
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(本文:りせん、編集:ryugamori)
【参考文献】
日本ホテル協会.『日本ホテル略史 自昭和27年1月至昭和28年12月』,1968年
日本ホテル協会.『Hotel review = ホテルレビュー3(29)』,1952年
中村芝鶴.「ホテル懐かし記-宮島ホテル-」.『Hotel review = ホテルレビュー7(79)』,日本ホテル協会,1956年
丸木砂土.『夜の話画の話』,明星書院,1930年
中国新聞社編.『中国年鑑 昭和29年版』,中国新聞社,1953年
森啓造.「宮島ホテル沿革」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991年
株式会社宮島ホテル.「宮島ホテル営業報告書綴」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991年
日本観光協会編.『観光 2月(341)』,1995年
村井志摩子.『原爆ドーム,ヤン・レツル三部作―村井志摩子戯曲集』,カモミール社,1997年
菊楽忍.「ヤン・レツル再考 : 書簡集から建築活動をたどる」『広島市公文書館紀要 25』,2012年
砂本文彦・大場 修ー・玉田浩之・角 哲ー・長田城治・村上しほり編.「宮島ホテル(税務講習所広島支 所)の接収と取り扱いについて」『日本建築学会技術報告集26(62)』,日本建築学会,2020年
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