見出し画像

ヤン・レッツェルとホテル①-宮島ホテル

「道は波うちぎわにうねっているせいか、小波の音に磯の香が強い。初めのうちは暗いうねゞ道だから遠いように思われたが、それは汐の具合で着く処が一定してないと判ってからは、さのみ遠くも感じられなくなって、やがて林の中にある大きな建物の前へ出る。それが宮島ホテルなのだ。」

中村芝鶴.「ホテル懐かし記‐宮島ホテル‐」『Hotel review = ホテルレビュー 7(79)』,日本ホテル協会,1956年,10p

日本ホテル略史には戦前から戦後に至るまで幾つものホテルの沿革が記されています。その多くが火災や戦災によって閉館、あるいは経営縮小を余儀なくされ、失われていきました。
中之島の絵葉書をきっかけに調べてきた大阪ホテル、名古屋ホテル。
2022年春、京都の古書即売会で購入した絵葉書に描かれていた宮島ホテルもそのひとつです。

ホテル洋館部の設計者であるヤン・レッツェル(以下レツルと表記します)は広島県産業奨励館、のちに原爆ドームと呼ばれるようになる建築を手がけた事で知られています。彼の作品で現存するものは先に述べた産業奨励館や小林聖心女子学院の門、ルルドの教会等とごく僅かですが、ホテル建築にもいくつか携わっていました。
美しい色彩で描かれた宮島ホテルの絵葉書を見てから、このホテルはどんな造りで、どんな経緯を辿って焼失に至ったのかーーゆっくりと興味が膨らんでいきました。

宮島歴史民俗資料館が公開している資料や、各地のホテルレビューを残した2代目中村芝鶴の言葉などを引用しながら、これまでに集めた紙資料を紹介していきます。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇    ◇    ◇

1.絵葉書-はじまりの「白雲洞」

宮島ホテルのあった場所は大元神社の境内に接し、のちに大元公園(または大元谷公園)と呼ばれるようになります。

宮島大元谷公園と厳島神社本社側面


『宮島ホテル沿革』によると、古来厳島神社に参拝する人はその殆どが大元谷より西の湾に上陸して、大元神社に参拝してから厳島神社に向かうのが常でした。
宮島町の住人・能美庄五郎は大元神社境内を開発し、参拝客の便を計ると共に営業の目的で休憩所と旅館を作ろうと計画します。
明治24(1891)年、県庁より係官の出張を要請して根気よく交渉を続け、遂に大元川一帯の借地権を獲得しました。

彼に貯えなく取り敢えず腰掛け茶屋を開業し、一客ある毎に若干の利益を貯え柱一本竹一束瓦一枚と買い集め、自らの器用さも充分に活用し、一部専門職を雇用し漸進的に客室を増加、遂に料亭旅館を白雲洞と号し営業を開始するに至れり。

森啓造「宮島ホテル沿革」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991年,30p

こうして開かれたのが料亭旅館が白雲洞であり、宮島ホテルの起源とも言える旅館でした。

白雲洞の手彩色絵葉書

能見の工夫や決断は業界でも話題となり、明治34(1901)年、彼が病に斃れるまで旅館は大盛況でした。大元公園の絵葉書は白雲洞を写したものが多く残っていますが、上の絵葉書では「白雲ホテル」と紹介されています。これは次の項目で触れる洋館棟が建つ直前のものと思われます。


2.絵葉書-「宮島みかどホテル」

明治39(1906)年、白雲洞の営業権は後藤鉄二郎によって買収、新たに主として使用する洋館一棟が建築されます。

鉄二郎は神戸にあったみかどホテル列車食堂みかどの経営を父・後藤勝造より委ねられており、その支店にあたるものとして白雲洞も宮島みかどホテルと改称しました。

宮島みかどホテル(ryugamori蔵)
宮島みかどホテル新館全景と厳島神社 

列車食堂・構内食堂事業を西へ拡大させるにあたり、宮島での営業は下関の山陽ホテルに次ぐ重要な一手でもあったようです。
また、当時宮島にはかめ福や岩惣などの旅館がありましたが、西洋風のホテルが出来るのは初めてのことでした。

旅宿は大小数十戸あり、概ね日本風なるが、ミカドホテルのみは西洋風なり。ミカドホテルは神戸市海岸通なる同名の旅館の分店にして、大元公園にあり。

重田定一.『厳島誌』,1910年

3.ホテルラベル-宮島みかどホテル

宮島みかどホテルラベル

みかどホテル時代のラベルはグラデーションが美しい丸型。この時はまだ「HAKUUNDO(白雲洞)」の名前が残されていた事が分かります。料理旅館時代の広間もそのまま転用し、ホテルの和館として使用していました。

4.絵葉書‐「宮島ホテル」前田虹映

明治45(1912)年、長沼鷺造が社長に就任し、株式会社宮島ホテルが発足。
当初、みかどホテル時代の建物をそのまま継続使用して営業していましたが大正4(1915)年に出火、洋館は全焼してしまいます。

当時の広島県知事は前任地・松島で松島パークホテルの設計を依頼した事からレツルに信頼を寄せていました。
火災の少し前、宮島にもホテルを建てるようレツルに依頼をしていたため、焼失したみかどホテルの洋館部分に新館を建築する事が決まった際に彼の設計図案が採用される運びとなりました。

レツルは日本の社寺建築の様式を簡素化した意匠に優れ、松島パークホテルに続いて宮島ホテルにもそれを巧みに取り入れます。
こうして大正6(1917)年、日本風の外観を持ちながら内部は純洋風の"擬和風建築"とでも呼ぶべき、塔屋を有した新館が完成しました。

陽春の宮島ホテル
大元公園と宮島ホテル
厳島神社と宮島ホテル
宮島ホテルより大元公園を望む


今回宮島ホテルを調べるきっかけとなったのがレツルの新館とその周辺を描いたこの4枚組の絵葉書です。前田虹映は鳥観図絵師として知られる吉田初三郎に師事した絵師で、独立後、早世するまでに多くの絵葉書・鳥瞰図を描き残しました。

海のすぐそば、生い茂る緑の中に青く光る立派な屋根瓦のホテルがあった事、そして専用の小型船でホテルへ向かう人達の姿があった事を色彩豊かに伝えてくれています。

5.絵葉書-写真と絵の比較

緑葉そよぐ幽遠の清境大元公園


こちらは昭和に入ってから発行された写真絵葉書。宮島ホテル新館は外観写真があまり残っておらず、宮島の絵葉書や写真を幅広く探す必要がありました。
そんな中、ホテルの塔屋が写っていたのが『カメラの宮島』と言う絵葉書セットの1枚です。

虹映の絵葉書のうち『陽春の宮島ホテル』と並べるとこのようになります。

比較①

カメラの宮島の写真はやや下から見上げるような構図ですが、看板や正面玄関へ続く坂道は一致しています。虹映が細かな所まで描写していた事が分かります。

厳島大元谷公園

もう1枚、これは別の方角から見た絵葉書です。キャプションでは「厳島大元谷公園」と紹介されています。大きな弧を描いた海岸線の窪み、林の中にひょっこりと塔屋上部のみ出ているのが宮島ホテルです。
こちらも虹映の絵葉書『厳島神社と宮島ホテル』と並べてみます。

比較②

ホテルの旗が建つ小さな岬は船着場になっていますが、それを目印にすると虹映の絵と写真絵葉書がほぼ真逆の地点から捉えた景色である事が分かります。

絵の中央付近にホテル、その左側には屋根を橙色に塗られた建物があり、その手前にある道は川を挟んで厳島神社へと続いています。つまりこの写真は厳島神社の方向から歩いてきた時に見える宮島ホテルの姿と考えられます。
もっとも古くからある参拝ルートに倣うのであれば、ホテルを発ち、大元公園の方から厳島神社へ向かう途中で振り返った時の眺めとする方が正しいかもしれません。

6.ホテルラベル‐宮島ホテル

宮島ホテルのホテルラベル

宮島ホテルになってからのラベルは、みかどホテル時代よりもスタイリッシュな配色です。鳥居を彷彿とさせる朱色をベースに鹿や五重塔のシルエットが描かれています。
宮島ホテルL.T.D=株式会社宮島ホテルの経営となっているので、明治45(1912)年以降のもの。
白いさざ波の中、海と風物が一体となったようなデザインは、前項目で述べたホテルの立地を思わせてくれます。集めた資料の中でも心に残る特別な1枚となりました。

次回はパンフレットや設計図を用いて、さらに詳細な建物の特徴や内装に触れていきます。
続く。

(本文:りせん、編集:ryugamori)

・2023年7月23日 加筆修正

【参考文献】

重田定一.『厳島誌』,1910年
運輸省.『日本ホテル略史』,1946年
中村芝鶴.「ホテル懐かし記‐宮島ホテル‐」『Hotel review = ホテルレビュー 7(79)』,日本ホテル協会,1956年
森啓造「宮島ホテル沿革」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町史編さん室,1991
株式会社宮島ホテル.「宮島ホテル営業報告書綴」.『宮島の歴史と民俗 NO.8』.宮島町立宮島歴史民俗資料館,1991年
外国人居留地比較研究グループ.「ヤン・レツルについて(2)」『Hotel review = ホテルレビュー 44(513)』,日本ホテル協会,1993年
齋藤尚文.『鈴木商店と台湾‐樟脳・砂糖をめぐる人と事業‐』,2017年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?